『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 龜ケ谷阪
●龜ケ谷阪
龜(かめ)ケ谷阪(やつさか)は。鎌倉七切通の一にして。扇ケ谷と山之内との中間に在り。長壽寺より南折し行く阪路(はんろ)をいふ。即ち南を扇ケ谷。北を山之内とす。元弘三年五月新田義貞北條氏の兵と戰ひし舊蹟なり。
[やぶちゃん注:「元弘三年五月新田義貞北條氏の兵と戰ひし舊蹟なり」これは巨福呂坂の誤りと思われる。「太平記」には亀ヶ谷坂の記載はない。元弘三年五月十八日(ユリウス暦一三三三年六月三十日/グレゴリオ暦に換算すると七月八日に相当)、鎌倉攻略の初戦に於いて新田義貞は六十万七千余騎の軍勢を三手に分け、極楽寺坂・化粧坂・巨福呂坂の三方から攻撃を開始している。極楽寺坂には大館(おおたち)宗氏・江田行義を将として、巨福呂坂には堀口貞満・大島守之を将としてそれぞれ十万余騎、中央の化粧坂からは新田義貞と弟脇屋義助が攻勢をしかけていることが明記されてある。この巨福呂坂を現在の亀ヶ谷坂と考える説もあるやに聞くが、「鎌倉市史 考古編」の「鎌倉城跡」(聴き馴れないかも知れぬが九条兼実の日記「玉葉」に記されている呼称である)の「規模構造」の「ロ 切通及び支城」の「亀ケ谷切通」の項に『山ノ内に入った敵は、建長寺手前から長寿寺のわきを経て亀ケ谷坂に侵入する事が出来る。この道が尾根を切り通した亀ケ谷坂である。現在の切通は後世深く且つ広く改修したもので、当時は現在の切通の上方を狭い切通路が通っていた』から、当時のその『前方に逆茂木をならべ切通上に陣を敷いて待ちかまえたら、通ることは出来なかったろう』とあり、同じ険阻な切通しでも突き破れば一気に野戦から幕府建物への攻勢に持ち込める巨福呂坂に対し、より狭く、下っても左に迂回せねばならず、しかもその際に危険な尾根裾を行かねばならない亀ヶ谷ルートは私が大将なら選ばない。]