『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 華光院/上杉定正邸跡
●華光院
華光院は壽福寺の東向(ひがしむかひ)なり。龍興山と號す。眞言宗、開基を賴舜と云ふ〔天福元年八月廿二日寂す〕本尊不動を安す。
[やぶちゃん注:廃寺。窟堂の背後の尾根の向こう側、現在の新しい寺である日蓮正宗の護国寺(一九六九年建立。横須賀線で北鎌倉から鎌倉へトンネルを抜けると左手に見えてくるドーム状の銀色の建物。因みにここが次の項に出る関東管領上杉定正邸旧跡である)の南にあった。「新編鎌倉志卷之四」から引く。
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◯華光院 華光院(けくはういん)は、壽福寺の東向(ひがしむかふ)なり。本尊は不動。
佐介谷(さすけがやつ)稻荷別當の所居也。昔は壽福寺の塔頭(たつちう)にて、壽福新命入院の時は先づ此院に入て、それより壽福へ入院すと云ふ。營西は、顯密禪なる故に、始より眞言宗なり。今は別院となりぬ。
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「鎌倉廃寺事典」の「華光院(けこういん)」には、『佐助稲荷は室町時代から鶴岡供僧の支配である』。しかるにここで「新編鎌倉志」は寿福寺の別院と言っており、『鶴岡と寿福寺の両方に属している』ことになり、何だかおかしいといったニュアンスの記載がなされてあり、『延宝八年(一六八〇)「除地覚」には「鶴岡支配花光院」と見える』と記すから、江戸中期以降は鶴岡支配であったものであろう(廃寺年代は不詳であるが、どうも雰囲気からすると明治の廃仏毀釈辺りらしい)。しかしとすると、本尊は、かのダイレクトな憂き目を見たと考えられ、憐れなは不動なりということになろうか(山越えして窟不動に逃げればよかったにのぅ)。因みに、「除地」というのは年貢諸役を免除された土地で有力な寺社の境内や無年貢証文のある田畑・屋敷などを言う。
「天福元年」一二三三年。北条泰時の治世である。]
●上杉定正邸跡
慈光院の門前にあり。修理大夫定正は修理大夫(しゆりたゆふ)持朝か子なり。享德の頃より。此地に住し。成氏の子政氏を輔翼(ほよく)して政務を沙汰せし事鎌倉九代記に見えたり。其頃世に扇谷の上杉殿と稱せしなり。定正明應二年十月五日に卒(しゆつ)せり。今は纔(わずか)に其遺蹤ありて田圃たり。
[やぶちゃん注:前項で述べた通り、現在の新興の寺である日蓮正宗護国寺境内地がここに相当する。
「上杉定正」(嘉吉三(一四四三)年或いは文安三(一四四六)年~明応三(一四九四)年)は相模国守護で扇谷上杉家の当主。上杉持朝三男。名臣太田道灌を暗殺した暗愚な主君として、また滝澤馬琴の伝奇「南総里見八犬伝」の極悪党の関東管領「扇谷(おうぎがやつ)定正」(実際には彼は関東管領ではないので注意)の名でも知られる(ここは立地も無論、扇ヶ谷)。以下、今まで鎌倉地誌記載でちゃんと注したことがない(私は鎌倉の室町史・戦国史になると鎌倉時代史の熱が急激に就下してしまい今一つ触手が動かなうなることをここに自白しておく)ことに気づいたので、参照したウィキの「上杉定正」より例外的にほぼ全文を引かさせて戴き、事蹟を示す(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『扇谷上杉家は関東管領上杉氏の一族で、相模守護を務め関東管領を継承する山内上杉家の分家的存在であった。扇谷家は鎌倉公方・足利持氏と山内家が対立して持氏が滅ぼされた永享の乱で山内家に味方し、享徳三年(一四五三年)以来の持氏の子の古河公方・足利成氏との長期の戦いである享徳の乱でも山内家を支え』た。『扇谷家家宰の太田道真・道灌父子は、河越城(埼玉県川越市)、江戸城(東京都千代田区)を築城するなどして、扇谷家の勢力は大いに拡大した。山内家と扇谷家は両上杉家と呼ばれるようになっていた』。『文明五年(一四七三年)、扇谷家当主だった甥の上杉政真が五十子の戦いで古河公方に敗れて戦死した。若い政真には子がなかったため太田道灌ら扇谷家老臣達の評定の結果、政真の叔父にあたる上杉定正が家督を継ぐ』。『定正は関東管領・山内上杉顕定と共に五十子陣に在陣して古河公方成氏と対峙した。しかし、文明八年(一四七六年)に山内家の有力家臣・長尾景春が反乱を起こし、翌文明九年(一四七七年)に五十子を急襲、定正と山内顕定は大敗を喫して上野国へ敗走する(長尾景春の乱)』。『上杉方は危機に陥るが、扇谷家家宰・太田道灌の活躍によって豊島氏をはじめとする各地の長尾景春方を打ち破り、定正も転戦して扇谷家本拠の河越城を守った』。『文明十四年(一四八二年)に長尾景春は没落し、古河公方・成氏とも和睦が成立した。だが、定正は山内家主導で進められたこの和睦に不満であり、定正と山内顕定は不仲になる。また、乱の平定に活躍した家宰・太田道灌の声望は絶大なものとなっており、定正の猜疑を生んだ』。『文明十八年(一四八六年)七月二十六日、定正は太田道灌を相模糟屋館(神奈川県伊勢原市)に招いて暗殺。死に際に、道灌は「当方滅亡」(自分がいなくなれば扇谷上杉家に未来はないという意味)とうめいたという』。『謀殺の理由について、定正は「上杉定正消息」で家政を独占する太田道灌に対して家臣達が不満を抱き、道灌が(扇谷家の主君にあたる)山内顕定に逆心を抱いたためと語っている。これは定正の言い分であり、道灌の方も「太田道灌状」にて定正の冷遇に対する不信を述べている。実際には、家中での道灌の力が強くなりすぎ定正が恐れたとも、扇谷家の力を弱めようとする山内顕定の策略に定正が乗ってしまったとも言われる』。『太田道灌謀殺により道灌の子・太田資康をはじめ多くの家臣が扇谷家を離反して山内顕定の元に走り、定正は苦境に立つ。道灌の軍配者(軍師)の斎藤加賀守のみは定正の元に残り、定正はこれを喜び重用した。山内家と扇谷家の緊張が高まり、長享二年(一四八八年)の山内顕定の攻撃によって戦端が開かれた(長享の乱)。更に異母兄の三浦高救も扇谷家当主の座を狙って動き始めた』。『これに対して定正は長尾景春を味方につけ、仇敵であった古河公方・足利成氏とも同盟を結んで対抗。戦上手の定正は実蒔原の戦い、須賀谷原の戦い、高見原の戦いに寡兵をもって勝利して大いに戦意を高め、「五年のうちに上野・武蔵・相模の諸士は、自分の幕下に参じるであろう」と豪語したものの、関東管領である山内家とその一族に過ぎない扇谷家の実力は隔絶しており、連戦に疲弊し次第に劣勢になった。この頃(長享三年(一四八九年))、山内顕定の不当性と自らの苦境を綴った、重臣曽我祐重に宛てた定正の書状が遺されている』。『定正は古河公方を軽んじた振舞いに出るようになり遂に盟約は崩壊し、これを定正の驕りと見た家臣の中には山内顕定や古河公方に寝返る者も現れた。重臣の大森氏頼は諫言して山内顕定や古河公方との和解を勧めるが、定正はこれに従わず山内家との抗争を続けていく。』『明応二年(一四九三年)、伊勢宗瑞(北条早雲)が伊豆国に乱入して堀越公方・足利茶々丸を駆逐した。この伊勢宗瑞の伊豆討入りには定正の手引きがあったとの見方が古来強い。定正は伊勢宗瑞と結ぶことになる』。『明応三年(一四九四年)、扇谷家重臣・大森氏頼と三浦時高が相次いで死去する。同年十月、定正は伊勢宗瑞とともに武蔵国高見原に出陣して山内顕定と対陣するが、荒川を渡河しようとした際に落馬して死去。享年四十九。太田道灌の亡霊が定正を落馬させたのだとする伝説がある。長岡市にある定正院が菩提所と伝えられている』。『定正・大森氏頼・三浦時高の三将の死は扇谷家にとって大きな痛手となった。甥で養子の上杉朝良が跡を継ぐが、伊勢宗瑞とその子氏綱の侵攻に押され、扇谷家は徐々に所領を蚕食されていく』とある。]
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