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« 女と夜   村山槐多 | トップページ | (無題「全身に酒はしみゆき……」)   村山槐多 »

2015/07/10

無題(「わが靈は汚がされ終りぬ……」)   村山槐多

 

 

 

 千九百十七年(22

 

 

 

 

わが靈は汚がされ終りぬ、靑銅の磨かれし面を見る如き活き輝やき強く重みありしその靈は、いま女陰を蔽ふ布の如し。

餘りにわれ群集と交はることを好み、平俗の生活と接し、貴とき孤獨を忘れし事の報ひなり。

汚れし靈を元の姿に倍したる榮耀にかへせ、群集になれ親しみたる平安と薄笑とを、寒く、淋しく恐ろしき孤獨にかへせ。

恐ろしきダァクチエンヂをわれは構想す。恐ろしき新生をわれは思ふ、めざめ動き、立ち躍れ、わが破壞の本能よ。こはせ、突きやぶれ、すべてのわが世を。

わが情熱の冷えわが慾念の消えぬ閑に、ただ獨りわれ歩まん事を欲す。

狂人の如く。仙人の如く。

わが靈を救はん道は是れなり。

土より光にかへらん道は是なり。

 

       ×

自分は要するに夢想家であつた且またある事をつくづくと悟る、自分は常に自分の姿を觀みてその時の自分が過去の自分より衰へ退いて居る事を感じるそして常に自らを激せしめ反省せしめる爲には「元の自分にかへれ」と言ふ言葉を使つた。だが一體元の自らの姿とは何であらう。その正體は結句自分の弱き精神につらなり生じたる夢想でありのがれ場所であつたに過ぎぬ。

この事はこの頃になつて可成りはつきりと解つて來た、つまり自分が段々と獨りぽつちにはうり出されて來たのである。

自分は勇氣を要する。不完全極まる自己、卑しく醜くき自己の他に過去にも現在にも自分の所有物はないと云ふことを承認し得る勇氣だ。一切の虚榮と一切の傳説とを去つてただ一箇の立ちん坊として生れかへる勇氣だ。

過去の痛ましく醜くき行爲の連續は自分を可成り愚にした。是も前述の意味で感じるのだが自分は今自分の姿を省察し得るわづかの透明さをも心に失ひかけて居る。自分は街頭の行人とその歩を共にし然も恥づることなくなり掛けて居る。むしろなつて居る。

そして聰明であり強大であらうとする欲求を考へる事すらものうい樣な弱々しさ怠惰さを覺える。

自分はとりもなほさず輝やきあるこの世を失ひかけて居るのだ。

裸になつて自らを整理し新らしくやり出すべき時はこの時だ。自分はやらう。眞實にやらう。

自分は一切過去に逃げまい、現在の一つにかじり付かう。眞の評價僞らざる價格を以て自からを買はう。

自分の實感に強く正直である事、嬰兒の如くであらねばならぬ、このことは現世に於て實に難い事だ、しかしその難きことをやることは生命を眞に用ひ現世を味はう事だ。

自分はよほど今愚である、自分は今如上の決意をしつゝも、いづくに、如何なるスタートに、自分の足を付くべきかを知る事が出來ない、しかし愚なれば愚でよし。

自分は眼をつぶつて現在の自分そのまゝから出立するであらう。淋しく暗き思ひは自分を打つ自分はこの淋しく暗く影薄き所から歩み始めるのだ一切を考へず唯自分の實感にたよりそのなすがままに行かう。

自分の仕事が自然を征服すると云ふ大きな仕事であると云ふことを恐れさへしなければ、自分は必ず如何なる場合にも幸であらう。

自分より愚であり醜である人間中に居る時は自分は不快なだけにむしろ幸福である。

自分の山頂はその高さを增すばかりであるから。

物は明確でなくてはならぬが自分の欲する處は陰の點綴された明確さである。皮肉さではない情熱のこもつた「わかつて居て知らぬ」と云ふ所である。その「ばかさ」に自分は自分の藝術のねらひをつける。

 

       ×

われは大なる過ちに落ちたり。そが中に貴きタイムを浪費したり。われは卑しき女を戀しその低き階級を愛し自らを低く卑しくせん爲に力をつくしたり。

おろかにも笑ふべき過ちなりしかな。さればわれわが靈の汚れゆく悦びて高まる事を嫌ひたり。

心を暗くし愚にする爲に酒くらひたれど心を淸く輝やかす爲に書を讀まざりき。かくしてわれは汚らはしく哀れなものとなりさびしさと自棄とに追はれそめたり。われは今悟る。この過ちを逃がれ出でむと思ふ。

われは總て高きを慕ひ低きを卑しみ高きへ高きへと上るべし。われは哄笑を卑しみ沈默を愛すべし。

われはすぐれたものとなり。すぐれたる女を戀せん。

 

 

[やぶちゃん注:私は既にやぶちゃん版村山槐多散文詩集で「全集」版を電子化しているが、今回は初出「槐多の歌へる」版でゼロから再電子化した。本散文詩は無題である。「全集」では「散文詩」パートに「わが霊は汚がされ終りぬ」と題し、大正六(一九一七)年作として載せる。]

 

[やぶちゃん注:「消えぬ閑に」「閑」はママ。「全集」は「間」に訂する。誤植の可能性が高いが、敢えてママとする。

「觀みて」ママ。「全集」全く同じ。しかし、これは読めない。私はこれは「顧みて」の誤字か誤植ではあるまいかと疑っている。

「その正體は結句」この「結句」を「全集」は「結局」とする。従えない。

「この事はこの頃になつて可成りはつきりと解つて來た、つまり自分が段々と獨りぽつちにほうり出されて來たのである。」「ほうり」はママ。「全集」はこの文章を前段に繋げてしまっている(なお、「ほうり」は「はふり」に訂している)。

「卑しく醜くき自己」「全集」は「卑しき醜くき自己」とする。不審。

「そして聰明であり強大であらうとする欲求を考へる事すらものうい樣な弱々しさ怠惰さを覺える。」末尾の句点は底本にはないが、他と比して句点を打った。但し、この箇所には問題があって、この一行は底本の見開き右五二頁の最終行最終マスまで詰っている。そのために当時の組版上、句点が打てなかったのだとも思われるのであるが、私が問題とするのは、続く「自分はとりもなほさず……」以下が、果たして本当に改行された一行であるどうかという点にある。繋がったもの一段落であったとしてもおかしくはないからであるが、暫くは「全集」に従い、改行としておく(実は、この疑問は次行の「眞實にやらう。」と「自分は一切過去に逃げまい……」の箇所でも生じている。ここも暫く「全集」通り、改行とした)。

「自分より愚であり醜である人間中に居る時は自分は不快なだけにむしろ幸福である。」の頭の「自分」は底本では「分自」であるが、これは誤植と断じて、「自分」とした。無論、「全集」も「自分」である。

「おろかにも笑ふべき過ちなりしかな。さればわれわが靈の汚れゆく悦びて高まる事を嫌ひたり。」と「心を暗くし愚にする爲に酒くらひたれど心を淸く輝やかす爲に書を讀まざりき。かくしてわれは汚らはしく哀れなものとなりさびしさと自棄とに追はれそめたり。われは今悟る。この過ちを逃がれ出でむと思ふ。」も前に示した疑問(連続している可能性)が生ずる部分である。暫く「全集」に従う。

「われはすぐれたものとなり。すぐれたる女を戀せん。」「全集」は真ん中にある句点を除去して、詰めている。]

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