『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 十王堂橋/鐡井/鐡觀音堂
●十王堂橋
十王堂僑は。傍(かたはら)に十王堂ありし故に名く。大船(おほふな)に通する鐵道線路の傍藥師堂の前に架せり鎌倉十橋の一なり。
[やぶちゃん注:北鎌倉駅を出て鎌倉街道を大船方向に百三十メートルほど行った小袋谷川(或いは山ノ内川。大方が暗渠になっているもののこの橋は残っている)架かる橋。この直近に十王堂があったことに由来する(白井永二編「鎌倉事典」に拠れば、ここにあった十王像は現在の円覚寺境内の総門を入ってすぐの左側にある十王堂桂昌庵に、また十王図六幅は同続燈庵に移されてあるとある。大昔に風入で見たかなぁ? 記憶ないわ……)。]
●鐡井
雪下西南方の路傍に在り。鎌倉十井の一にて。昔井中(ゐちう)より鐡の觀音像を得たり故に名く。
[やぶちゃん注:小町通りをどん詰りまで行った鎌倉街道に出る右手にある。白井永二編「鎌倉事典」に拠れば、『明治六年(一八七三)以前は、井戸の西方にある小堂にこの像(首のみ。胴は崩れた)を安置していたが、そののち、東京人形町大観音寺へ移転し、そこの本尊となった』とある。「人形町ゆるりお散歩ガイド」の「大観音寺」で尊像を現認出来る。また、この像は別に扇ヶ谷にあった古刹新清水寺(せいすいじ)の本尊であったと伝承されていて、東京の寺院についてはいつもお世話になっている松長哲聖氏のサイト「猫のあしあと」の「大観音寺」の頁で「中央区史」の縁起を引く中に、『大観音寺(日本橋人形町二の三)聖観音宗に属し、人形町大観音の別称は、御前立大観音像に、所在地の人形町を冠して世人が通称したのによる。本尊は丈五尺あまりの首像で青銅の蓮台上に鎮り、作者は高麗名工というが、もと源頼朝の守護仏でその室政子の創立にかゝる寿福寺とともに鎌倉屈指の霊場であった扇ヶ谷清水寺の本尊であった。明治元年三月、神仏分離の法令が布告され、この首像も鎌倉八幡宮の所有と誤られ破却されようとしたとき、明治六年石田可村、山本卯助の両人が搬出して深川御船蔵前の河岸に陸上げし、明治九年にいたり人形町通り蠣殻町二丁目に仮堂をいとなみ、さらに同十三年二月許可を受けて、間口五間五尺五寸奥行六間四層楼の大悲閣を建立して正遷座を執行した。これより堂宇経営の基礎漸く調い、信徒の詣る者も日々に加わったが、大正大震災による劫火によって、たちまち堂宇は灰燼に帰した。以来本尊は日鮮会館の屋上に仮安置され、昭和十五年十月十七日堂容を新にし、同時に大震火災に頽れた御前立像の再鋳を行った』とある(下線やぶちゃん)。またしてもおぞましき廃仏毀釈の犠牲になりかけるも、一命をとりとめた観音ということになるのである。なお、貫・川副共著の「鎌倉廃寺事典」も同じ部分を抜粋で引き、『頼朝のことはあやふやであるけれども、鎌倉に伝わる話と合致するところもなくはないし、明治以後のことは、一応信頼出来ると思う』としている。]
●鐡觀音堂
銕の觀音の首〔長六尺〕のみを置く。是は昔堂前の井中堀得(ほりえ)しものにて新淸水〔廢寺〕寺の本尊なりしと云ふ。
[やぶちゃん注:「堀」はママ。前の「鐡井」の注を参照。「新編相模国風土記稿」を無批判に調子に乗って引き写す本『風俗画報』の最悪の箇所の一つで、前の「中央区史」にある通り、『明治元年三月、神仏分離の法令が布告され、この首像も鎌倉八幡宮の所有と誤られ破却されようとしたとき、明治六年石田可村、山本卯助の両人が搬出して深川御船蔵前の河岸に陸上げし』た時点で、もう「鐡觀音堂」はなかった。これ、昨今の鎌倉で訳の分からない店屋やレストランがあっという間に出来てはふっと潰れるといったのとはわけが違う。十四年後の明治三〇(一八九七)年、この鎌倉ガイドブックを片手に、このありもしない堂を探した人々に対する『風俗画報』の罪は決して、軽くはない。]
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