電車と靜物 村山槐多
電車と靜物
矢の樣に電車がゆく
美しい果物の籠と
美しい女と
二つの靜物をのつけて
眺め入つて居ると
かごは女の體上に落ち
電車はとまり
二つの靜物がその代りにどこかへ歩き出した、
×
琥珀のまるが點々と
眞晝の花に見えまする
赤い胴の三味線が
遠い虛空で鳴りまする
まるくかごんでいいひとの
まるいせなかを抱きませう
×
湯屋のおかみさんの肉感的な事よ
裸で番臺に上る事だけはおねがひだからよしな
×
きくもいまはしき地獄の音
玉ちやんと云ふ名
×
鬼の線が俺の顏に走つて居る
鏡の前で嘆息した
鬼の線は〇〇にもやはり
×
もどかしい病的な私の靑春はひたはせに走せてゆく、
もう二十二才になつた、西洋風にしてこの九月で二十一才だ、
空虛に淋しくもやりすごした事よ
しかし美しさは確にあつた、すくなくともすこしはその上に斑になつて現はれて居た、
金色の斑を持つた灰色の矢の如くそれはとび去つた、
かくして自分はあと三十年四十年の運命に定められた時間をもつ、
この時間をどう費さうか、
與へられた金に就いて靑原の入口で考へる蕩兒の樣に私は立どまつて考へやう、
限り知らぬ希望を以つて、
第一に私のやりたい事は自分を宏大な藝術として完成する事だ、
それを見れば人眩らみ醉ひ泣く所の恐ろしいある魔をつくる事だ、
自然の諸相の精粹をつかみとつて
わが杯に調合するのだ、
そして不思議な媚藥をつくるのだ、
畫室がほしい、女がほしい、
美しい生活がほしい、心も消ゆる樣な遊びがほしい、
大海の樣に廣く、強く動ける精神が、
空の樣に澄めるはげしい感情がほしい、
踊りたい、萬物の滿足の上に、
×
滿つたわが心と肉と
金色に光る
美しい夏の日の
大島の海べに
死骸の樣に
すてた果物の樣に
時としてダイヤの樣に
燦々と光る
さびしいさびしい默りより
いつそれは輝く鳥の樣に
空を翼で打ち
空をふるはせる事か
×
善き心
めざめるな
われは惡をもて身を立てんとす
書き心よわれを放て、
マクベスの終りわれを待つこと
われよく知るものながら。
×
猛鳥の如き女
わが夢の空を飛ぶ
されどもめざめし時
わが眼は常にひかる
空の如くはかなき女に
しやもの如く相撲つ
二つの思ひわが心の中、
×
時をして風の如く
吹き過ぎゆかしめ
その中に石佛の如く
微笑して坐し居らん
ああああ
かくも觀ずる事の乾きよ
われその影だにも
心の中に見る事なし
一刻は萬貫の土塊の如く
力が心に落ち
あせりさわぎ
苦難止む時もなし
×
たばこにすへし舌を
一盞の水にくちそそぐ
淸き明るき白晝
美しき泉津の村に。
×
血と一所にせきを吐く
美麗な女が居た
「妾は病氣です」と言つた
強い紫の明りがかつと天から來て
その人を射拔いた。
「妾はもうだめなの」と言つて
はつきりと涙をこぼした
私は遠くから眺めて居たが
とんで行つてその人に言つた
「大丈夫です大丈夫です」と
そして見ぬふりしてまたとび去つた
紫の光と一所に
はるかのはるかのかなたへ
×
猛々しい燃える樣な惡い劣つた宿命が私にからみつく、猛毒ある蛭か蛇か藥品の樣に。
しうねく強く
家の貧苦、酒の癖、遊怠の癖、みなそれだ、
ああ、ああ、ああ、
切りつけろそれらに、
とんでのけろはねとばせ、
私が何べん叫びよばはつた事か、苦しい、さびしい、
血を吐く樣に藝術を吐き出して狂の樣に踊りよろこばう、
何と言つてもあの形に現はし難い悦び――を多分「藝術」と云ふのだらうが
あれが自分の全部だ、すべてを棒に挨れ、よせつけるな、あれだけに、
あれだけにしがみ付かう、その外はどうあらうとかまつた事か。
×
歡をつくせ、心
絶えず打笑へ
酒の如く澄んであれ
その底によろこびを含んで
絶えず泣けうれしさ餘り
娘の如くふるへてあれ
うつくしく
うつくしく
たのしく
たのしく
心よ
心よ
[やぶちゃん注:「立どまつて考へやう」の「やう」、「あせりさわぎ」の「さわぎ」、「しうねく強く」の「しうねく」はママ。
底本では「もどかしい病的な私の靑春はひたはせに走せてゆく、」の一連(「踊りたい、萬物の滿足の上に」まで)だけが全体二字上げの組版となっている。
「玉ちやん」槐多がこの前年大正五年に狂ったように熱愛した着物モデル(但し、「「着物モデル」だと彼女のことを教えたのは槐多の画友で後の洋画家山崎省三。次の詩「失戀の記録」を参照されたい)。草野心平によれば(「村山槐多」昭和五一(一九七六)年刊)、この前年に詩篇や日記が異様に少ないのは、その「お玉さん」への恋愛とその失恋の影響が大であるとする。また、彼女こそ『槐多のある暗いそして狂的な運命のキッカケになった』女であり、彼女への『失恋からの放浪の』『当時としても伝説めいた』『独り旅』が始まったと記す。本詩篇の後半の大島の旅もその一齣である。謂わば、彼女は槐多の最初のファム・ファータルであったと言ってよかろう。
「鬼の線」自画像でも確認出来る、槐多の額の眉間に縦に刻まれた深い皺を彼は自身で「鬼の線」と呼んで嫌っていた。近年、彼のデッサンの描画力を『鬼の線』と呼んで賞讃するらしいが、槐多が聴いたら、どう思うであろうか。
「鬼の線は〇〇にもやはり」「全集」で編者山本太郎氏は「魔羅」と推定復元されておられる。
「たばこにすへし舌を」の「すへし」は「すへ」が「饐」の意であるなら「すゑ」が正しい。「全集」は「すゑ」と訂されてある。
「泉津の村」現在の東京都大島町泉津(せんづ)。町の東部に位置し、太平洋に面しているが村域の殆どは山である。
「猛々しい燃える樣な惡い劣つた宿命が私にからみつく、猛毒ある蛭か蛇か藥品の樣に。」この一行は「全集」では、句読点が除去された上、改行されて以下のようになっている。
*
猛々しい燃える樣な惡い劣つた宿命が私にからみつく
猛毒ある蛭か蛇か藥品の樣に
*
なお、この一行、表現としては摑み難い。「猛毒ある蛭か」「蛇か」から調合した怪しい「藥品の樣に」、「私にからみつく」「猛々しい燃える樣な惡い劣つた宿命」だ、と私は採るが、どうも「猛毒ある蛭か蛇か藥品の樣に」が推敲段階の詩句のように絡みついていらつかせる。
「血を吐く樣に藝術を吐き出して狂の樣に踊りよろこばう、」は「全集」では読点を除去し、
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血を吐く樣に藝術を吐き出して
狂の樣に踊りよろこばう
*
と改行、二行の連に仕立て変えてある。不審。]