『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 管領屋敷
●管領屋敷
管領屋敷(くわんれいやしき)の址は。明月院に至る路東の畠なり民部大輔上杉憲顯(のりあき)足利基氏の執事としてこゝに住し。子孫亦此所に居宅す。蓋し當時僭稱して執事を直ちに管領と唱へしに因り。管領屋敷の名を傳へたり。後(の)ち永祿四年三月。上杉謙信鶴岡八幡宮參詣の時。上杉舊館の蹤跡たるを以て。當所に假屋を設けて止宿せしことあり。
[やぶちゃん注:これについては伝承のみで、確固たる同定確証はなく、現在は最早、位置も定かには現認出来ない(一応、長寿寺の向いの東北一帯を「東管領屋敷」と呼称してはいる)。「新編鎌倉志卷之三」に、
*
管領屋敷 管領屋敷は、明月院の馬場先(ばばさき)、東鄰の畠也。上杉民部の大輔憲顯(のりあき)、源の基氏の執事として此所に居す。其の後上杉家、代々此の所に居宅す。其の時鎌倉にても京に似せて、管領を將軍或は公方などと稱し、執事を管領と云故に、此の處を管領屋敷と云なり。後に上杉顯定、上州平井の城に居す。しかれども山の内の管領と云ふ。憲顯の末流を、山の内上杉と云なり。扇谷(あうぎがやつ)の上杉と云あり。扇谷の條下に詳かなり。
*
とある。
「民部大輔上杉憲顯」(徳治元(一三〇六)年~応安元・正平二三(一三六八)年)は南北朝期の武将。関東執事から関東管領。足利尊氏・直義の従兄弟。特に直義とは同年で親しかった。鎌倉で足利義詮を補佐したが、もう一人の執事であった高師冬と対立、観応二・正平六(一三五一)年に師冬を滅ぼして関東の実権を握った。その後、兄と不仲になった直義を匿おうとして尊氏と対立、敗走、信濃に追放となった(観応の擾乱)。後、鎌倉公方足利基氏に許されて復帰、貞治二・正平一八(一三六三)年は入鎌して関東管領となった。足利氏による関東支配の中核を担い、更に関東上杉氏勢力の基盤を固めた人物。
「上杉顯定」(享徳三(一四五四)年~永正七(一五一〇)年)は戦国の武将。関東管領。越後守護上杉氏の出身であったが山内上杉家当主を継ぎ、四十年以上の長きに亙って関東管領職を務めた。古河公方足利成氏との対立、家臣長尾景春の反乱、同族の扇谷上杉定正との抗争、越後の長尾為景との戦い(この戦で戦死)など、兵乱の只中を生きた、山内上杉氏の最後の光芒を放った人物である。
「永祿四年三月」西暦一五六〇年。
「上杉謙信鶴岡八幡宮參詣の時」鎌倉好きを口にする方々の中にも、かの上杉謙信が最後の関東管領であって、この年に上杉憲政から譲り受けた関東管領職を公認させるために彼が鎌倉に来て鶴岡八幡宮を参拝し、長尾景虎から上杉政虎に改めたという事実を言うと、知らなかったと返す人が存外、多い。現在の研究ではこの拝賀の儀は同年の三月二十六か二十七日頃と推定されている。ユリウス暦で四月二十一日か二十二日で、後のグレゴリオ暦に換算すると五月一日か二日であるから目には青葉の大臣山(だいじんやま)であった。]
« 『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 山之内 | トップページ | 我電子情報剽窃改竄頁――梟首!――「鎌倉タイム」の「新編鎌倉志 第一巻 黄門様による、元祖鎌倉ガイド」というおぞましきシロモノを糾弾する―― »