偏光 村山槐多
偏光
わが眼美しき物に悦び
物みななべて照り輝やきにき
光は泣く事なく
物體は悦びにき
されどこの彫刻めきてなつかしき豪奢の時は
いつしか過ぎわが眼に美しき物は
漸(や)うやくに兇惡の相を帶び
光は泣きしきる
天地は睨みし
物みなすべて寫樂が眼ざしを悦び
やつれたり
わが眼の周圍に
ある遊歩の時われはわが眺望の頽廢を
もたらせしを見出しぬ
いと憎くいとうらかなし
こはわれの戀人なりき、
わが見る物は美しくみな照り輝き
光は豐にして孔雀石の色を帶びにき
すべて圓滿にして佛の如く
すべて豐年の樂しさを具へにき
されどこの彫刻めきてなつかしき豪奢の時は
いつしか過ぎ去り
美しき物はすべて狂氣し泣きうめきたり
すべて陰險と兇惡とを具へたり
天地は美しき惡漢となり
ものみな寫樂の描きたる眼を具へたり
たくましき物はやつれ進み
樂しき物は泣かんとしたり
この雨の落る時薄紅のくれがた遊歩の時
われは見出づこの眺跳(ちやうちやう)の頽廢をもたらせし物
ああいと憎くいとかなしけれども
そはわれの戀人なりき
[やぶちゃん注:「全集」で、まず不思議なのはここでは「頽廢」を「頽廃」とせずに、正字で示している点である。以前の詩篇では新字化しているのにも拘わらず、である。ここを「全集」の新字というコンセプトを外してまで特別に「廢」にしなければならない理由が私には見当つなないのにも拘わらず、である。
「この雨の落る時薄紅のくれがた遊歩の時」ここは「全集」では、「この雨の落る時 紅のくれがた遊歩の時」となっている。これはもう由々しき誤植(脱活字)で話にならない。
「眺跳」不詳。――「この眺跳の頽廢をもたら」したのは、ああっ!……「憎く」もあり、痛く「かなし」と感ずるのだ「けれども」、何と……それを「もたら」したものは、かの「われの戀人」であったのだ!――という詩想から考えれば、この「眺跳」は「わたし」の切に惹かれ愛する「戀人」であるわけであるからして、「眺跳」はその対極としてのネガティヴな意味でなくてはならない。とすれば、例えば「佻佻」(てうてう/ちょうちょう:行くも労苦に耐へ得ざる姿・浅はか・軽薄・輕佻浮薄の意)などが私には想起はされるが。識者の御教授を乞うものである。]