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2015/07/26

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」  長壽寺

    ●長壽寺

長壽寺は寳龜山と號す。鎌倉志等に足利基氏其の父尊氏の爲めに建(たて)る所とあれとも。風土記に當寺所藏に。建武三年八月當寺を諸山(しよさん)の列に定めし尊氏の公文(こうぶん)あり。是に據れは沒後の開基とするは中らす。今是非を决し難しとあり。昔は伽藍巍々たりしが。今は衰微し。惟久殿〔佛殿〕は其の名のみにて。獅王殿即ち客殿に本尊釋迦、文殊、普賢及ひ尊氏〔束帶〕開山古先和尚等の木像を安置す。

[やぶちゃん注:「鎌倉志等に足利基氏其の父尊氏の爲めに建る所とあれとも」「新編鎌倉志卷之三」の「長壽寺」の条には、

   *

◯長壽寺〔附尊氏屋敷〕 長壽寺(ちやうじゆじ)は、寶龜山(ほうきさん)と號す。關東諸山の第一なり。源の基氏父尊氏の爲に建立す。尊氏を長壽寺殿妙義仁山(めうぎにんざん)大居士と號す。〔尊氏、京都にては等持寺と云、鎌倉にては長壽寺と云。〕延文三年戊戌四月廿九日に薨ず。當寺に牌あり。開山は古先和尚、下の行狀に詳かなり。昔しは七堂ありしとなり。今は滅びたり。鐘は圓覺寺山門の跡にあり。[やぶちゃん注:以下略。]

   *

とあり、「鎌倉攬勝考卷之五」の同寺の条でも、

   *

長壽寺 山ノ内往來路に總門あり。寶龜山と號す。關東諸山の第一なり。足利尊氏將軍追福の爲に、鎌倉公方基氏朝臣の剏建なり。尊氏卿の法號を、長壽寺殿妙義仁山大居士と號す。延文三年戊戌四月廿九日薨逝。京都にては等持院殿と稱す。古えは當寺も七堂ありし由。[やぶちゃん注:以下略。]

   *

とする(但し、後者は多分に「新編鎌倉志」を引き写した可能性が高く、特にこの長寿寺の条はかなり杜撰な処理がなされている。リンク先(同寺が冒頭)の私の注を参照のこと)。対して、「新編相模国風土記稿」には以下のように記されて特異点を成している(私は同書籍を所持しないので国立国会図書館近代デジタルライブラリーの「大日本地誌大系 第三十九巻」版の当該箇所を視認した。なお、「當時」及び「例に定し」の「例」はママである。「蚤く」は「はやく」と訓ずる。住持名「中岑」は「ちうしん(ちゅうしん)」と読むと思う)。

   *

◯長壽寺 寶龜山と號す臨濟宗にて關東諸山の第一なり當寺所藏開山古先の行狀記〔永和二年、福山の石室が書記せしなり、〕及び【鎌倉志】【高僧傳】等みな源の尊氏〔延文三年四月廿九日薨ず、牌あり長壽寺殿妙義仁山大居士と記す、〕の薨ぜし後管領基氏父の爲に剏建すと記せど、當時所藏に。建武三年八月當寺を諸山の例に定し、尊氏の公文あり〔曰、當寺事、可爲諸山之列也、可被存其旨之狀如件、建武三年三月廿九日、長壽寺長老、尊氏の華押あり、〕是に據れば沒後の開基とするは中らず、今是非を決しがたし、昔は七堂伽藍具足せしとぞ今は悉く滅せり、舊は應永の鑄鐘ありしが蚤く逸して今は圓覺寺、正續院にあり、則應永の銘あり〔銘文は正續院條に註記す、〕彼山内に移せしは何の頃何の故たる事ふつに傳へず、彼院の條併見るべし、△客殿 獅子王殿と唱ふ、釈迦・文殊・普賢を本尊とし、古先・中岑二師の像及び尊氏束帶の像を置く、[やぶちゃん注:以下寺宝が続くが略す。]

   *

「惟久殿」は「ゐきゆうでん(いきゅうでん)」と読むのであろう。「惟」は「ユイ」とも音読み出来るが、如何にもごろが悪い感じがする。

「古先和尚」古先印元(こせんいんげん 永仁三(一二九五)年~応安七/文中三(一三七四)年)は臨済僧。薩摩生。円覚寺の桃渓得悟(とうけいとくご)に入門して十三歳で得度、文保二(一三一八)年には元に渡って、天目山の中峰明本らに師事した後、嘉暦元(一三二六)年に清拙正澄(せいせつせいちょう)の来日に随って帰国、正澄が建長寺に入ると経蔵の管理を担当した。建武四年/延元二(一三三七)年には、かの夢窓疎石に請われて甲斐国の恵林寺住持となり、更に足利将軍家の信任を受けて足利直義から京の等持寺の開山に、足利義詮からはこの長寿寺の開山に招かれ、更に天龍寺の大勧進をも務めている(他にも陸奥国岩瀬郡の普応寺など彼を開山とする寺院が知られる)。この間、康永三年/興国五(一三四五)年に京の真如寺、貞和五/正平四(一三五〇)年に万寿寺に住まいし、更に鎌倉の浄智寺を経て、延文四/正平一四(一三五九)年には円覚寺第二十九世に、次いで建長寺第三十八世となった。晩年はこの長寿寺に居住した。諡号は正宗広智禅師(以上はウィキの「古先印元」に拠った)。]

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