『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 大休寺蹟/飯盛山/御馬冷場/公方屋鋪蹟/八幡宮
●大休寺蹟
淨妙寺域内にて石垣猶存せり。廢井(はいせい)あり。當寺は熊野山號し。足利左兵衞督直義の創建にて。月山希一を開祖とす。此邊とも直義か宅地なりと云ふ。
[やぶちゃん注:「此邊とも直義か宅地なりと云ふ」は「此の邊ども、直義が宅地なりと云ふ」である。この周辺が直義の旧宅宅地であったこと、晩年は法体であった直義の法名は大休寺殿贈正二位古山慧源大禪定門であったことから、本寺が直義個人の菩提寺であったことが判る。「鎌倉廃寺事典」によれば、浄妙寺の傍らで、前項の延福寺旧跡の西にあったとする。現在の浄妙寺の西側の山腹にある浄明寺の鎮守熊野神社の登り口付近が同定地とされる。廃寺年代は不詳ながら、室町中期以降。]
●飯盛山
十二郷谷の右にあり。當時山上に淺間社ありしとぞ。管領成氏か時は例歳(れいさい)六月潔齋して參詣ありしとなり。
[やぶちゃん注:以下、位置関係を分かり易く認識するために、「新編鎌倉志卷之二」のこの飯盛山と次の御馬冷場(おんうまひやしば)の記載が附帯する「公方屋敷」を引く(附帯項の《 》は私が附したもの)。
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○公方屋敷〔附飯盛山御馬冷場〕 公方屋敷(くばうやしき)は、淨妙寺の東(ひがし)芝野(しばの)なり。此の所ろ、源の尊氏の舊宅にて、代々關東管領(くわんれい)の屋敷なり。【太平記】に、元弘三年五月二日の夜半に足利殿の二男、千壽王殿、大藏谷(をほくらがやつ)を落て、行き方知れず成り給ふと有るは、此屋敷なり。相模入道滅亡の後、尊氏は京都に居し、千尋王殿は義詮(よしあき)と號し、此の所に居住す。後に上洛有りて、其の舍弟基氏、關東の管領として、此屋敷に居住す。爾(しか)るより以來、氏滿・滿兼・持氏、相ひ續いで居住也。持氏沒落の後、持氏の末子成氏、永壽王とて、土岐左京の大夫持益(もちます)あづかりて、信州にありしを、越後の守護上杉相模の守房定(ふささだ)、京都の公方へ訴訟して、關東の主君とす。寶德元年二月十九日、鎌倉へ下向。此の所に御所造營有て居住なり。此の地繁昌の時、鎌倉にても京に似せて、管領を將軍と云ひ、或は公方、又は御所と稱す。故に爰を今に公方屋敷と云ふ也。里俗或は尊氏屋敷・基氏屋敷・持氏屋敷などゝ云ふは此故なり。成氏、後に下野の古河(こが)へ退(しりぞ)く。其の子孫義氏、鎌倉へ歸居(ききよ)を願ふの由、鶴が岡に願文數通あり。いづれの時か、古河の公方御歸ヘりあらんとて、畠(はたけ)にもせず。今に芝野にしてをけりと、里老語れり。關東管領興廢の事、【鎌倉大草子】【鎌倉年中行事】【鎌倉九代記】等に詳なり。尊氏屋敷は、巖窟堂(いはやだう)の南方、又長壽寺の南鄰にもあり。三所共に尊氏の舊宅と云ふ。《飯盛山》此の所の南方に高き山あり。飯盛山(いひもりやま)と云ふ。富士權現を勸請す。【鎌倉年中行事】に源の成氏、六月一日、飯盛山の富士參詣とあり。此ならん。又此の公方屋敷東の山際に、御馬冷場(をんむまひやしば)とて、巖窟(いはや)の内に水あり。賴朝の馬、生唼(いけずき)・磨墨(するすみ)の、すそしたる所なりと云ひ傳へて二所(ふたとこ)ろあり。淨妙寺より此邊まで、足利家の屋敷と見へたれば、賴朝に限るべからず、馬も二疋のみならんや。鶴が岡の鳥居の前より此地まで十五町あり。
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引用文中の「すそしたる」は「馬の脚を洗った」の意である。なお、扇ヶ谷の扇の井の背後の山も飯盛山と呼称するので注意が必要。
「十二郷谷」「鎌倉日記(德川光圀歴覽記)」に(リンク先は私のブログ・テキスト)、
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十二郷谷〔十二所村トモ云〕
淨妙寺ヨリ東南ノ谷、民家三軒今ニアリ。川越屋敷ト云ハ十二郷谷ノ東隣也。
引用文中の「川越屋敷」は河越重頼(?~文治元(一一八五)年)の屋敷地のことと思われる。武蔵国入間郡河越館の武将で新日吉社領河越荘の荘官。頼朝の命で義経に娘(郷御前)を嫁がせた事から源氏兄弟の対立に巻き込まれて誅殺された(事蹟はウィキの「河越重頼」に拠る)。但し、ここに彼の屋敷があったという事実を証明するものはない。この記載だと、現在の広域の十二所(じゅうにそ)を示すようにも読めるのであるが、余りに広過ぎる。どうもこの「十二郷谷」というのは浄妙寺のすぐ東の尾根の反対側を南北に走る谷戸及びその南の、胡桃川(滑川)左岸を南に延びる谷戸辺りの名称のように思われる。現在、この左岸直近にはやぐらが残るが、それは現在、「十二郷谷入り口やぐら」と呼称されてもいる。]
●御馬冷揚
公方屋舖の東山際に水涸(みづかれ)し池あり。賴朝の馬生唼磨墨のすそせし所なりと云ふ。東國紀行にも此事を記せり。
[やぶちゃん注:前の私の注の「新編鎌倉志卷之二」の「公方屋敷」の引用を参照のこと。現在の明王院南西百三十メートルほどの位置に比定されている。
「生唼磨墨」は前の引用にもあるように「いけずき」「するすみ」と読み、源頼朝の持っていた名馬。「平家物語」の名場面「宇治川の先陣争い」で知られ、生唼(「生食」「池月」とも書くが、後者なら「いけづき」となる。名の表記が変わるのは馬主の身分の違いを憚った変名と思われる)は佐々木高綱に、磨墨は梶原景季に、それぞれに戦闘に先立って与えられた。「生唼」とは、馬でありながら生き物に喰らいつくような勇猛なる馬の意、「磨墨」は墨を磨ったようなあくまで深く玄(くろ)い毛並の意である。]
●公方屋鋪蹟
淨妙寺の東の芝野をいふ。足利尊氏玆に在住し。後(のち)其子孫關東管領たる數世此舘に在て兵馬の權(けん)を執れり。當時管領を斥(しりぞけ)て將軍又は公方又は御所などと稱せしより今に土俗公方屋敷蹟と呼へり。
[やぶちゃん注:前の「飯盛山」の私の注の「新編鎌倉志卷之二」の「公方屋敷」の引用を参照のこと。「鎌倉攬勝考卷之八」の「公方家營館舊跡〔附公方家代々之大概〕」の冒頭の基氏の条の頭で、
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○基氏朝臣〔左馬頭。〕 御館の地は、五大堂と淨明寺の間の地をいふ。徃昔此所は、右大將賴朝卿治世の始より、大膳大夫大江廣元が宅地にて、建暦三年五月、和田亂の時、將軍の御所兵燹に罹りしゆへ、實朝公此亭へ御移、同八月二日新御所へ此亭より御移徙といふ。仁治年中、五大堂の地を定め給ふ時に、堂地まで彼屋敷の地先かゝりしといふこと、【東鑑】に見へたり。
廣元は嘉祿元年六月十日に卒す〔七十八〕。其四男藏人大夫入道西阿は、毛利氏を稱して、此廣元が第に住居し、寶治元年六月、三浦泰村・同光村が陰謀には黨せざれども、西阿の妻室は泰村が妹なるゆへ、妻室の言に因て、兵起りし時泰村が陣に馳加り、合戰敗績に及びければ、終に三浦が一族とゝもに右大將家の法華堂に籠り、西阿入道父子兄弟自殺し、遺跡沒收の後に、此軸を足利左馬頭義氏入道正義に賜ひしより、足利家の屋敷となり、代々の第地には宮内少輔泰氏住給ひ、左馬頭義氏は爰にすみ給ふ。【東鑑】に、足利左馬頭正義が大倉の亭とあるは、此所の事也。其後尊氏將軍の御父、讃岐守貞氏入道觀爰に住ければ、將軍〔尊氏。〕も同敷住居せられ、元弘二年、讃岐入道此所にて歿し給ふといふ。
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とある。実際、この北背後の明王院の裏山に当たる胡桃山には大江広元の墓と伝わる石造五層塔が残ってもいる(というより、西御門の頼朝の墓の近くにある伝大江広元墓はずっと後代、文政六(一八二三)年に、広元からの血族を信ずる長州藩(毛利家。当時は第十代藩主毛利斉熙(なりひろ)の代)によって建立された新造供養塔に過ぎない)。]
●八幡宮
公方屋舖蹟の傍にあり。小八幡と稱す地形を推考するに。鎌倉年中行事に成氏の勸請せし上の八幡と稱するは是なるべし。例祭は十一月十五日なり。又傍に小祠あり。持氏を祭ると云ふ。例祭二月九日。御酒を供す。
[やぶちゃん注:一種の屋敷神かと思われるが、「鎌倉廃寺事典」で「小八幡社」として載る現存しない社である。明治三〇(一八九七)年当時も最早存在していなかったと考えてよい。今までもそうだが、「相模国風土記稿」を無批判に抄出する傾向が強い本書は、こうした当時最早存在しなくなっているものを検証なしに矢鱈に引く傾向がある。ちょっとマイナーな場所の場合、ガイドブックとしては悪質とも言え、検証の杜撰さが非常に気になるところではある。]
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