電車の中の軍人に 村山槐多
電車の中の軍人に
俺の電車が走つて行く
外は五月のすばらしい野だ天だ
東京の郊外を走り飛ぶ
俺の好きなボギー車に俺は居る
恐ろしい醜惡の人々を滿載したな
第一に泥でこね上げた田舍おやぢが五六人
臭い樣なポーズをとつて居る
それから日本語をしやべる女異人
抱かれて泣きわめく白子の樣な赤ん坊
一面の糞色、にきび、腐つた脂肪
臭い息、無智な大馬鹿共
それらがこの電車の中でうようよとして居る
それから過淫に疲れた女の皺だらけの顏
俺はふと躍り上つた
俺の横なる二人の士官の
健康の威嚇に
何と云ふ美しさだ
強い黄色人種我等の戰士
俺は君を讃嘆する
君のその隆々たる容貌と態度とが
俺の腐つた下落した心を高める
軍人よ軍人よ
俺は下らない繪を描いた覺えがある
その不滿と悔とが俺を泣かせる
俺は苛立たしくもかく灰にまみれて居る
然るに君は何とした誇りに輝いて居る事よ
カーキー色の歩兵士官よ君には
畫學は何でもなからう
君の一擊は俺の生命を立ところに奪ふことであらう
ああ俺は君をうらやむ、ねたむ
君には畫の不滿がない
然るに俺にはある、俺は神經衰弱だ白痴だ
君はすばらしい精氣にダイヤモンドの如く輝やく
俺はかなしくなつた
だが見ろ今に俺が君の如くに輝やくぞ
君の劍が君の腰に光る如く
俺の誇りが必ず輝やくのだ
ああ電車は走る走れ、早く走つてしまへ
俺も今に走るぞ
この光榮ある軍人に負けない光榮の天に
走り込んで見せるのだ
愚な馬鹿
劍を吊つた□有難い帝國の干城よ
貴樣は何をさういばつて居るのか
新兵の□□どもよ。
×
あらゆる「しな」を去れ
直情の人であれよ
貧乏たい飾を去れ
そして眞底の一つの塊であれ
たとへそれが小さく醜くとも
「眞は」「眞」だ
眞は輝やくであらう
僞金の山より
一匁の金は貴といのだ
確かに「眞」であれ
ただ一つであれ
簡單であれ眞劍であれ
それによつて汝は汝の藝術は
自由と鋭利と豐饒とを得る事が出來る
幸に永遠の快樂に達し得る
×
おれが言葉を役する時不用意を極めて居た事よ
それは俺の思想が痛ましい雜淫に依て荒されて居たからだ
單純にせよ、すくなくとも
そしてそれと共に俺の言葉も單純にならなければならぬ
單純にして死活的なる事ピストルを出る彈丸の如くであらねばならぬ
おれの喉をピストルにせよそして沈默せよ
べろべろしやべるな
沈默が靈を貴くするだらう
×
何と云ふ耐へ難い悲哀であらう
俺は悲哀の海底に沈められた瓶中の惡魔だ
何をして居た何をして居た。何を俺はして居た
俺の劣等な低い現在が俺を苛立たせる
すべてが破滅だ
すべてを棄てなければ駄目だ
俺は俺のとぢ込められた卑劣な下惡な牢獄から
とびださなければならぬ
空の樣に海の樣に自由な世界ヘ
チシアンのロダンのグリース人の世界へ
躍進しなければならぬ
この耐へ難い苦痛の中から
一足飛びに飛ばなければならない
俺は飛ぶのだ飛び上るのだ。
×
概念に依て作畫する輩よ
俺も過去はそれであつた
汝等の仲間であつた
ああ、が今となると俺は強い自信を以て言ふ
「貴樣等は豚だ」と
俺は豚から飛び出した一つの神靈だ
ああ出鱈目の繪畫
面もなく色もない繪よ
×
逃亡よ
逃亡よ
おれは汝を戀して居る
おれは逃げるのだ
この世界から
眞實唯一の俺の世界へ
逃げよう逃げよう
×
ああ東京よ
俺の豚小屋よ
俺は一つの魔法を持つて居る
その魔法が何日使はれるかは俺も知らぬが
その時汝はかつと金色に輝やくであらう
豚どもも人間と變るであらう
有難くその時をまつて居ろ
×
小さくうれしがり
小さく成功する馬鹿者よ
お前はみゝずだ
お前の藝術は泥だ
お前はそれをはき出したのだ
その泥がきれいだらうが汚なからうが
それが一體何だおれにかなふか
さめきつたおれに。白晝の天子に
おれは天子だ
天子の仕事はさう容易には汝等に
みみず共に賞揚されぬ
[やぶちゃん注:異様な長詩で前半の現実の情景は後半では情念に呑み込まれてゆく。伏字のある第十一連については、編者山本太郎氏の推定復元注記がある。それに従った第十一連のみを以下に示す(厳密には復元字の著作権は山本氏にあるが、これを以って著しい著作権侵害を行っているは私は思っていない。なお向後、この私の見解は略す)。
*
愚な馬鹿
劍を吊つた猿有難い帝國の干城よ
貴樣は何をさういばつて居るのか
新兵の軍人どもよ。
*
因みに「干城」は「かんじやう(かんじょう)」で国を防ぎ守る軍人や武士のこと。「詩経」「周南」の「兎罝(としゃ)」(兎罝:兎を捕るための目の詰まってしっかりした網のこと)に基づく。「干」は盾の意である。
「ボギー車」鉄ちゃんでない私は注を附けねばならぬ。ウィキの「ボギー台車」に拠れば、これはボギー台車を装備した鉄道車両の名称で、『車体に対して水平方向に回転可能な装置をもつ台車の総称』である。『車体の短い小型車では、車体と2本の車軸を直接サスペンションでつなぐ固定二軸車で対応できたが、次第に大量輸送手段として鉄道が普及してくると、車体長を大型化しても曲線通過に支障がないよう、車体とは独立してある程度回転できる機構を採用した』ボギー台車を附けたボギー車が登場した、とある。]
第五連二行目「俺は君を讃嘆する」は「全集」では「俺は君を讃美する」となっている。不審である。確かに表現上は「俺は君を」であるなら「讃嘆する」のではなく、「讃美する」の方が用語としては正しいがしかし、それは修辞の厳密性というレベルの問題でしかない(なお、これまで注していないが、底本自体がここまで「讚」ではなく「讃」の字体を用いている)。
第七連四行目「立ところ」はママ。「全集」は「立どころ」となっている。
第八連四行目「輝やく」はママ。今までも、槐多の好むこの用語の場合には必ず「や」を送っている。彼の癖であり、私は実は全く違和感を感じない。従ってこの「輝やく」のママ注記はこれを以って省略する。
第十二連(最初の「×」直後の連)三行目の「貧乏たい飾を去れ」はママ。読みは不明。「全集」では「貧乏くさい飾を去れ」と〈読み易く問題なく〉書き直されてある。しかし本当にこれは「貧乏くさい」の誤記或いは誤植であろうか? これを以って槐多は「貧乏(やぼつ)たい」と読ませる積りでなかったと言い切れようか? 私は「貧乏くさい」という言葉を別な類語にせよと言われれば直ちに「野暮ったい」という語を思い浮かべる。この二語の相性は思いの外よいのである。
同じ行の「眞底」は恐らくは「しんそこ」で、心底、心の奥底の謂いと読む。
同じく十二連六行目の『「眞は」「眞」だ』の鍵括弧位置はママ。「全集」は『「眞」は「眞」だ』と補正する。
同じく十二連九行目の「一匁」は「いちもん」(一文。はした錢)と読みたい。
同「貴とい」はママ。「全集」は「貴い」と訂しているが私には違和感は全く、ない。「とうとい」は例えば感動詞の場合に「貴と」と表記するからである。但し、次の連の最後で槐多は「貴くする」と送り仮名を現行のようにも振っている(因みに脱線するが、私は私自身の自動認識作用として「貴い」は「とうとい」、「尊い」は「たっとい」としか読めない人間である、その相互入れ替えはあってはならない、両者の訓は厳然と区別されるべきであると考えている人間である)。
第十三連二行目「それは俺の思想が痛ましい雜淫に依て荒されて居たからだ」は「全集」では何故か、
*
それは俺の思想が痛ましい雜淫に依て
荒されて居たからだ
*
と改行されている。従えない。
同じく十三連の後ろから二行目「べろべろしやべるな」はママ。「全集」では「べらべらしやべるな」と訂されてある(繰り返し部分は底本も「全集」も孰れも実際には踊り字「〱」である)。「ら」は確かにしばしば「ろ」に判読を誤り、また植字・校正時にも誤り勝ちではある。従って「べらべら」の訂正が正しい可能性は頗る高い。高いが、私は従えない。槐多なら如何にも「べろべろ饒舌(しゃべ)るな!」と言いそうだからである。
第十四連七行目にある「下惡」はママ。あまり聴き馴れないが違和感も不審もない。「全集」もそのまま採っている。
同じく十四連十行目「チシアンのロダンのグリース人の世界へ」の、
「チシアン」は槐多の好きだった「ウルビーノのヴィーナス」で知られるイタリア・ルネサンスのヴェネツィア派を代表する巨匠ティツィアーノ・ヴェチェッリオ(Tiziano Vecellio 一四八八~一四九〇年頃~一五七六年)のこと。当時は“Tiziano”をかく音写していた。
「グリース人」は無論、“Greece”でギリシャ人。
第十七連四行目「その魔法が何日使はれるかは俺も知らぬが」の「何日」はママ。「全集」は「何時」となっている。]