失戀の記録 村山槐多
失戀の記録
紅い日光がしやべくつて居た、何かしら埒もない事を、
田端から谷中へ通ふ道の上を通じて
日もすがら飽きもせず、
靑い空が硝子をはめた樣に強く晴れて居た、
ばつたりと私は會つた美しい女に、知らぬ女に。
乞食に近い身なりで私は歩いて居た、丁度その女があつちから鳥の樣に近づいて來た時
女の凉しい眼が私の顏をあかくさせた、
それからその女が忘れられぬ、
また會つた、次の日に、次の次の日にも、
その女を見さへすると私は凉しい美味な飮料を呑んだ樣に思ふのであつた「戀」と心が輝やきつ述べた、
「あれはモデル女だよ」と友の一人がささやいた日から私は女を捕へにかかつた。私の仕事は畫であつたものだから。
美しい名が私の唇に上りはじめた、その女の名の「お珠さん」と云ふのは
モデルの市にお珠さんを見る事が私のたゞひとつの仕事になつた、畫を描く事も忘れ果てゝ
とうとう私達の仕事場に女の姿が現はれた、美しい長い姿を圍んで私も夢の樣に畫布に向つた。
私の言つた戯談に笑ふ時その小さい齒から色ある響きがそれに答へた、
とうとう知り合になつた、嬉しさに人知れず踊つて居た、たゞひとり暗き人なき所で、
うちへつれて來て二人切りで畫を描いた時、お珠さんの眼がすこし怖い光を帶びて私を見た、
「私をお思ひない、一心に」とお珠さんに言ひつけられた、
女の姿が見えなくなつた、私は探しまはつた。
かなしくなりながら、
淺草の活動寫眞館の暗の中でその人を見た
おどろきに眼がくらむ、女は貧しい故にこんな所のやとひ人とならねばならない、
私も貧しい、どうする事も出來ない。
それから夜毎に淺草へ通つた。顫へながら、高ぶる戀の思ひに、
瓦斯と電燈との光、群集をくぐつて夜更けて家へとかへる珠ちやんを淺草から吉原へと夜毎に追つた。
話しかける一ときを作らうとして作り得ず、おかしい愚な追跡をくりかへした、
女は私をこはがり始めた、
醉つては走る狂の樣な私の姿が女の神經を恐怖の極みに進めてゆく、
私の戀は噴水の樣に高まつた、
ある夜まち伏せて居た酒場の戸の陰から
投げつけた酒杯が女の足下で銀に微塵にくだけた、
女は狂態をむしろ憤つた、
私は吉原の裏へ引つ越した、彼女の家は間ぢかに、
女は顫へて居る、殺到する男の豫感に、
美しい月夜に似た灰色のある眞晝、私は女を捕へた、とあるいぶせき小路に、
私は打ち明けた、眼をつぶらなければ言へぬ程の激しい思ひを、
女の眼は靜まりその顏は石の樣に冷めたくなつた、美しい刹那のヒステリア
私は戀を失つた、女は私を逃げた、忙然とのこされて涙の泉が私の心に澄み輝いた
その夜から歌の樣なすてばちな亂肆の生命が私の身を酒と卑しい女とに投げ入れた
私は私を失つた
涙と一所に私は東京を離れて遠い國へと旅立つた。
×
寒いあやうひ空は照る
金の草木のその上に
秋は靜にうつくしき
季節と人は今ぞ知る
活々と戀は生きかへる
美しき君が顏に。
×
槍の樣に雨がふる
眞蒼に恐れて屋根は輝やく
夜はふけてゆく
恐ろしい夜はふけてゆく
寒さに慄へて私は窓邊に居る
さびしく貫しく弱く
×
うるほひて晴れたる
美しき日の下に紫の道は走る
その顏の佛に似たる友どちと
ほほ笑みてわれ歩む
日もすがら地を歩む
日かげに似たるものぐさの二人
たゞ語りたゞ笑ひたゞゆく
あてどなきかなたへ
若き日の行く音に
さびしく耳立てゝさすらへり
美しき日赤き街輝やきて叫び動けど
たゞぼんやりと道を二人はゆく
瓦斯マントルに似て光る雲
靑きかげを二人にそそぐ
美しき悲哀心にくもり
しばしは共に默りゆけり
[やぶちゃん注:大正五(一九一六)年の春、槐多が小杉家を出て自活生活に移ったのも、この「お玉さん(お珠さん)」故であったと考えてよかろう。しかし、本篇を一読すれば直ちに思い至る通り、毎日彼女に手紙を送り(「全集」年譜や前掲の草野心平「村山槐多」によれば、その葉書には署名代わりに決まって目玉一つを描いてあったという)、彼女の家の近くに引っ越す、酩酊して凄むなど、大方の現代人から見れば、完全鉄壁典型無二なストーカー以外の何者でもないという印象であろう。
「その女を見さへすると私は凉しい美味な飮料を呑んだ樣に思ふのであつた「戀」と心が輝やきつ述べた、」この末尾「心が輝やきつ述べた、」はママ。「つ述べた」の部分は私には意味不明である。
「モデルの市」絵のモデルを斡旋しまた雇うためにあった専門の紹介所らしい。
「私達の仕事場」日本美術院研究所のデッサン・ルーム。ここで注しておくと、日本美術院は明治三一(一八九八)に東京美術学校を排斥されて辞職した岡倉覚三(天心)が自主的に連座して辞職した美術家達とともに谷中の大泉寺に結成したものを濫觴とする。以後盛衰を繰り返した後に解散したが、岡倉の逝去の翌大正三(一九一四)年、その意志を引き継がんとして、文展(文部省美術展覧会)に不満を持つ旧院生であった横山大観や下村観山らが日本美術院を再興した。場所は谷中三崎坂南町で、槐多が籍を置いたのはその洋画部であるが、大正九(一九二〇)年にまさに槐多を引き受けていた小杉未醒(放庵)が同院を離脱したことにより、洋画部所属の同人らが連袂退会し、解消してしまったとウィキの「日本美術院」にはある。老婆心乍ら、この美術団体は現在の公益財団法人日本美術院、「院展」のそれである。
『「私をお思ひない、一心に」とお珠さんに言ひつけられた、』の「お思ひない」はママ。「全集」は「私をお思ひなさい、一心に」と鮮やかに〈訂〉しているが、私は彼女がどこの出身かは知らないが、「ない」を「なさいな」という命令形でとることに違和感がない人間である。
「亂肆」聞き馴れない熟語であるが、「肆」の原義は、ほしいまま・我儘・恣(ほしいまま)にするの意であるから、著しく我儘な、の意であろう。
「涙と一所に私は東京を離れて遠い國へと旅立つた」の「一所」はママ。「全集」は「一緒」とある。ここまで、底本では、例の二字分高い位置からの組であったものが、以下の「寒いあやうひ空は照る」からは最後まで二字下がっている。この箇所は明らかに意図的な版組ではある。底本のこの行は改頁三二〇頁の初行で、明らかに意識的に半組をその後から下げいているからである。但し、冒頭注で述べたように、ブログ版では読み難くなるだけで益がないので無視する。なお、「全集」も無視している。
「寒いあやうひ空は照る」はママ。「全集」は「寒いあやふい空は照る」と訂する。
「その顏の佛に似たる友どちと」「全集」は「友どち」を「友だち」とする。こんな捏造が許されていいはずが――ない!――
「瓦斯マントル」ガスマントルは白熱ガス灯の燃料であるが、ここはそれを用いたガス灯の灯の光のことを指している。ウィキの「ガス灯」の「白熱ガス灯」に(アラビア数字を漢数字に代えた。下線はやぶちゃん)、白熱ガス灯は『ガスマントルを利用することにより、従来の裸火ガス灯と比較して、一灯の出力が四十燭光程度にまで伸びたガス灯。
ガスマントルは、一八八六年(明治十九年)、カール・ヴェルスバッハによって発明された。麻や人絹の織物に硝酸セリウム・硝酸トリウムを含浸させたもので』、それをガスの供給バルブの上に被せて、『一旦火を付け灰化させるとガスの炎で発光する。日本では明治二十七年頃からガスマントルを利用したガス灯が出現した。
タングステン電球が普及するまでは相当数が用いられた。従来の裸火のガス灯と区別する為に白熱ガス灯という。現在見ることのできるガス灯の大半はこの白熱ガス灯である』。]