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« 夢野久作 定本 獵奇歌 (Ⅸ) / 獵奇歌 了 | トップページ | 『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」  龜ケ谷阪 »

2015/07/25

舊稿の中より   夢野久作

[やぶちゃん注:以下の総表題「舊稿の中より」という歌群は西原和海編「夢野久作著作集 6」の「獵奇歌」の大パートの定本「獵奇歌」直後に配されてある「獵奇歌」の「SY君を弔ふ」十二首/「レーニン死す」十一首/計二十三首と前書からなるものである。但し、それぞれの前書から分かるように、これらは「獵奇歌」の最初の第一群が公開された昭和二(一九二七)年八月よりも前に詠まれたもので、それぞれ、「SY君を弔ふ」が十年前の大正六(一九一七)年の九月中旬(前書に「その年の暑中休暇が濟んだ頃」とある)、「レーニン死す」が三年大正一三(一九二四)年の春(ウラジーミル・イリイチ・レーニン(Влади́мир Ильи́ч Ле́нин 一八七〇年~一九二四年)の死去は同年一月二十一日)に創作された歌群と推定出来る。

 同氏の解題によれば、この「「獵奇歌」を掲載中であった、『獵奇』の昭和七(一九三二)年四月号に掲載されたものである(署名は夢野久作)。同号に掲載された「獵奇歌」は十六首もあり、創作出来なかったことによる苦し紛れの掲載ではなく、素直に前書を信じてよいものである。因みに、掲載当時の久作の年齢は満四十三であるが、「SY君を弔ふ」は二十八(クラとの結婚の前年で、杉山家嗣子として還俗、唐原(とうのはる)の農園に戻った年である)、「レーニン死す」は三十五歳であった(この同年春三月に『九州日報』を退社(一度目の方)している)。

 なお、「SY君を弔ふ」(「SY君」は不詳)に現われる前書には看過出来ない差別的錯誤があるので注意されたい。彼はこの追悼歌を詠んだ「SY君」という故人について、彼は『遺傳の業病かゝつ』ていたと述べ、十二首の内一首を除いて『レプラ』『癩病』がちりばめられてある。これは無論、この歌友の罹患していた病気がハンセン病であることが判る。ハンセン病は細菌門放線菌門放線菌綱放線菌目コリネバクテリウム亜目マイコバクテリウム科マイコバクテリウム属マイコバクテリウム・レプラ Mycobacterium leprae による純粋な感染症であるが(現行、種名和名を「らい菌」とするが、私はこの謂い方も「癩病」を廃している以上、廃するべきと考える。されば学名をそのまま音写した)、歴史的に永い間、生きながら地獄の業火に焼かれるといった「天刑病」「業病」の差別、潜伏期が長いことから(一般的には三~五年であるが十年から数十年の後に発症する症例もある)感染症とは考えにくいという誤認、後の悪法「らい予防法」(昭和二八(一九三三)年)などに見るように日本政府自らが優生学政策を掲げたことなどから遺伝病であるというとんでもない誤解が広まっていたのである。そうした顕在的潜在的差別意識(それは患者であるSY君の言葉の中にさえ出現する)に対して充分に批判的視点を持ってお読みになられるようお願いする。そうして、かくも誤った認識によって、かくも凄絶に孤独に死んでいったハンセン病に罹患した人々がいた事実を記憶に刻み込んで戴きたい。

 

 

 

   舊稿の中より

 

 

 

     ㈠

 

 S・Y君を弔ふ

 

 大正五年の六月初旬、歌友S・Y君が長逝しました。S・Y君は凛々しい美男で、頭が優れて良かつたのですが、遺傳の業病にかゝつて以來、鄕里九州の或る半島の奧に一人住居の小舍を造り、其處(そこ)で死期を待つて居るといふ噂を、人傳(づ)てに度々聞きました。私はそのたんびに見舞ひに行かうか行くまいか。行つて良いものか惡いものかと思ひ迷つて居りますうちに、その年の暑中休暇が濟んだ頃、突然二三人の歌友が訪ねて來まして、S・Y君が死んだ。この前に見舞い行つた時にはまだ元氣だつたが……云々と報告をして呉れました。

 私は其(その)時に、何ともタマラナイ氣持ちになりましたが、今でも思ひ出すたんびに息苦しくなる樣(やう)です。左記は其時の歌友たちの話をタヨリに詠みました歌です。まことに誠意の無いしわざの樣(やう)ですが、せめてもの懺悔と思ひまして……。

 

   ◇

 

 春まひる

 夕暮れのごと蟲の飛ぶ

 レプラの友の住めるその家

 

 離れませ吾はレプラぞ

 神と人とに地が反(そむ)かする

 吾はレプラぞ

 

 秋更けし夕燒けのごと笑ふなり

 レプラの友の

 泣ける橫顏

 

 地に咲ける最(もつとも)醜くゝ美しき

 血潮の花ぞと

 レプラ囁く

 

 人の世に迷ひも悟りもあらばこそ

 たゞ美と生命ぞと

 レプラの友云ふ

 

 レプラ云ふ

 吾が血は肉は頽れ行けば

 骨のみ殘りて天を呪はむ

 

 レプラ云ふ

 吾が血は肉は頽れ行くよ

 心のみ吾に殘る無殘さよ

 

 癩病の友は云ひけり

 吾が骨の座りて殘らば

 よき諷刺畫ぞと

 

 霜の夜は天の笞(しもと)の

 皮に肉に骨に沁みると

 レプラの友泣く

 

 癩病の友は云ひけり吾が生命

 三年保たば

 神に謝せむと

 

 生きながら眼も唇も流れ失せて

 歌友は逝きぬ

 世は梅雨に入る

 

 蠅ヒシと群れて動かず

 梅苦(にが)き窓邊に死せる

 レプラの吾が友

 

 

 

      ㈡

 

  レーニンを弔ふ

 

 大正十三年一月レーニンが死にました時に詠んだ歌です。今頃少々トンチンカンかも知れませぬが、前の歌稿を探す序(ついで)に見當りましたから、何かの埋草にもと思ひまして……。

 

   ◇

 

 レーニン死す

 遠き露西亞の革命兒

 零下何度の冬のさ中に

 

 レーニン死す

 零下何度の寒風に

 ザーを殺した思ひ出も氷れ

 

[やぶちゃん注:「ザー」はロシア語の皇帝「ツァーリ」царь)の音写か? ロマノフ朝第十四代にして最後のロシア皇帝ニコライ二世(Николай II 一八六八年~一九一八年/在位は一八九四年十一月一日~一九一七年三月十五日)は流刑に処されたが、『チェコ軍団の決起によって白軍がエカテリンブルクに近づくと、ソヴィエト権力は元皇帝が白軍により奪回されることを恐れ、一九一八年七月十七日午前二時三十三分、ウラジーミル・レーニンよりロマノフ一族全員の殺害命令を受けた、元軍医でチェーカー次席のユダヤ人のヤコフ・ユロフスキー率いる、ロシア帝政下で抑圧され続けた少数民族のユダヤ人・ハンガリー人・ラトビア人で構成された処刑隊が元皇帝一家七人(ニコライ二世、アレクサンドラ元皇后、オリガ元皇女、タチアナ元皇女、マリア元皇女、アナスタシア元皇女、アレクセイ元皇太子)、ニコライ二世の専属医(エフゲニー・ボトキン)、アレクサンドラの女中(アンナ・デミドヴァ)、一家の料理人(イヴァン・ハリトーノフ)、従僕(アレクセイ・トルップ)の合わせて十一人をイパチェフ館の地下で銃殺した。これにより、元皇帝夫婦ニコライ二世とアレクサンドラの血筋は途絶えた』(引用は参照したウィキの「ニコライ二世」に拠るが、アラビア数字は漢数字に代えた)。]

 

 レーニン死す

 その思ひ出の寒風は

 人類のアクマを氷らすであらう

 

 レーニン死す

 兵上が流す熱涙が氷柱になつた

 素晴らしいレーニン

 

 レーニン死す

 墓場はモスコーの赤小路

 心臟ならば動脈瘤の位置

 

[やぶちゃん注:ウィキの「ウラジーミル・レーニンの死に至る部分と「死去」の項を引いておく(アラビア数字は漢数字に代え、注記号は省略した)。レーニンは『一九二二年三月頃から一過性脳虚血発作とみられる症状が出始める。五月に最初の発作を起こして右半身に麻痺が生じ、医師団は脳卒中と診断して休養を命じた。八月には一度復帰するものの十一月には演説がうまくできなくなって再び休養を命じられる。さらに十二月の二度目の発作の後に病状が急速に悪化し、政治局は彼に静養を命じた。スターリンは、他者がレーニンと面会するのを避けるために監督する役に就いた。こうしてレーニンの政権内における影響力は縮小していった』(中略)。『レーニンは、症状が軽いうちは口述筆記で政治局への指示などを伝えることができたが、政治局側はもはや文書を彼の元に持ち込むことはなく、彼の療養に関する要求はほとんどが無視された』。レーニンの妻『クループスカヤがスターリンに面罵されたことを知って彼に詰問の手紙を書いた直後の一九二三年三月六日に三度目の発作が起きるとレーニンは失語症のためにもはや話すことも出来ず、ほとんど廃人状態となり、一九二四年一月二十日に四度目の発作を起こして翌一月二十一日に死去した』。『レーニンの死因は公式には大脳のアテローム性動脈硬化症に伴う脳梗塞とされている。彼を診察した二十七人の内科医のうち、検死報告書に署名をしたのは八人だった。このことは梅毒罹患説の根拠となったが、実際は署名をしなかった医師は単に他の死因を主張しただけであって、結局この種の説を唱えた医師は一人のみだった。フェルスターらが立ち会って死の翌日に行われた病理解剖では、椎骨動脈、脳底動脈、内頸動脈、前大脳動脈、頭蓋内左頸動脈、左シルビウス動脈の硬化・閉塞が認められ、左脳の大半は壊死して空洞ができていた。また、心臓などの循環器にも強い動脈硬化が確認されている。なお、レーニンの父イリヤ、姉アンナ、弟ドミトリーはいずれも脳出血により死去していることから、レーニンの動脈硬化は遺伝的要素が強いと考えられている(革命家としてのストレスもそれに拍車をかけた)』。葬儀は死の六日後の一九二四年『一月二十七日にスターリンが中心となって挙行され、葬儀は二十六日に行う、というスターリンが送った偽情報によりモスクワを離れていたトロツキーは、参列することができなかった』(当時、トロツキーの滞在していた場所が二十六日には到底間に合わない所にあったということであろう)。『レーニンの遺体は、死後ほどなく保存処理され、モスクワのレーニン廟に現在も永久展示されている。その遺体保存手段については長らく不明のままで、「剥製である」という説や「蝋人形ではないか」という説も語られていた』。『ソ連崩壊後、一九三〇年代から一九五〇年代にレーニンの遺体管理に携わった経験のある科学者イリヤ・ズバルスキーが自身の著作で公表したところによれば、実際には臓器等を摘出の上、ホルムアルデヒド溶液を主成分とする「バルサム液」なる防腐剤を浸透させたもので、一年半に一回の割合で遺体をバルサム液漬けにするメンテナンスで現在まで遺体を保存しているという』。『なお、ロシア政府はエリツィンのころより、遺体を埋葬しようと何度も計画しているが、そのつど国内の猛反対にあい撤回されている。ロシア国民にとっては良くも悪くも近代ロシアの父と見る節があり、また根強い共産党及びソビエト政権への支持層からの反対が大きく、クレムリンの壁と霊廟に「強いロシア」のイメージを重ねる者も多い』とある。]

 

 レーニン死す

 腦を解剖した醫師が

 頭を振つて苦笑ひした

 

 レーニン死す

 腦を覗いた醫者が云つた

 彼は神でも惡魔でも無かつた

 

[やぶちゃん注:以上の二首は前の注で示したレーニンの梅毒性の脳病変という風説に基づくものであろう。]

 

 レーニン死す

 惡魔と云はれた辯舌を

 一層強く鋭くする爲

 

 レーニン死す

 死骸を防腐するといふ

 科學の偶像が又一つ殖えた

 

[やぶちゃん注:「獵奇歌」(但し、この歌群の発表より二年後の昭和九(一九三四)年八月号の『ぷろふいる』掲載分)の中に、私の好きな、

 

 眞鍮のイーコン像から

 蠟細工のレニンの死體へ

 迷信轉向

 

の一首があるが、本歌はその初稿と考えてよかろう。]

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