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2015/07/02

氷の涯 夢野久作 (18)

 それから二晩ほど走るうちに、機械が惡くなつたらしく、何度も何度も故障が起りはじめた。さうして豫定よりもズツト早くガソリンが無くなりかけたので、トウトウ諦めた彼女は、道路の見える處まで來てボートを乘り棄てた。あとから地圖に引合はせてみると、そこはハバロフスクから百五十露里ばかり手前のペトロスカヤ付近だつたらしい。ボートは河岸の草の茂みの中に引上げて置いたから洪水(おほみづ)が出ない限り見付からないだらう。

[やぶちゃん注:●「ペトロスカヤ」不詳。ハバロフスクから百五十キロメートル上流となるとアムール川(黒龍江)左岸の「ゴロヴィノ」という場所辺りであるが、「ペトロスカヤ」に近い地名は見当たらない。或いは旧地名か、右岸の中国領内の地名のロシア語呼称であったものか。識者の御教授を乞うものである。]

 晩秋の光に滿ち滿ちた大河岸(おほかはぎし)の、廣い廣い露草の中に立つた時、僕は何がなしにタメ息をさせられた。靑い靑い大空を仰ぎながら、もういよいよ駄目だ……と思つた。

 食事が濟むと彼女は飮料水の全部をバケツの中にブチマケて、片手で固練白粉(かたねり)を溶きながら、首から上を氣味の惡いほど眞白に塗り上げた。それから細長い情熱的な眉を引いて、唇を赤黄色(あかきいろ)いベニガラ色に染めつけると、今度は僕を丸裸體(まるはだか)にして、黑い支那服じみた奇妙な恰好の古いダブダブ服を着せた。それから軍服と兵隊靴(ぐつ)を、ボートの下に突込(つきこ)むと、代りに古い赤革のゲートル靴(ぐつ)を穿かせて、鍔の廣い、黑い、伊太利(イタリー)風のお釜帽子(かまばうし)を冠(かぶ)せて、大きな色眼鏡(いろめがね)をかけさせて、それから食料とお金と化粧道具と、ピストルを納めた上に、僕の雨外套と、毛布と、飯盒(はんがふ)を結びつけた露西亞式(ロシアしき)の古背嚢(ふるはいなう)を僕の肩に載せかけて、一番最後に巨大な新しい手風琴(てふうきん)を渡した。

[やぶちゃん注:●「固練白粉(かたねり)」硬めに作った練(ね)り白粉(おしろい)のこと。粉白粉と油或いはグリセリンと練り合わせて柔らかな固形にした白粉。水若しくは化粧水で溶いて塗る。舞台メークなどの濃厚な化粧に用いられる。現在のファンデーション・ケーキに相当する(以上はウィキの「おしろい」に拠った)。 ●「お釜帽子」大正時代のモボが好んで被ったソフト・ハットの頭を潰したものを当時は「御釜帽」と呼んだ。中原中也の知られた写真を想起されるとよろしいか(リンク先は“Wikimedia Commons”の単体写真)。]

 彼女は其處で二、三歩退(しりぞ)いて僕の姿を眺めると腹を抱へて笑ひ出した。

「ホホホハハハ……ハラショ……オーチヱンハラシヨ……とてもよく似合つたわ。濟(す)まあしてんのねアンタは……盲啞(まうあ)學校の生徒さんソツクリよ。ホホヽヽハハヽヽ……いゝこと、アンタはザバイカル生まれのボヂイ、ガルスキーつて云ふ人よ。それから妾(わたし)はプリアト、モンゴル生まれのナハヤ、ガルスキー……二人は夫婦なのよ。……いいこと……見てらつしやい」

[やぶちゃん注:●「オーチヱンハラシヨ」“Очень хорошо”(とってもいいわ!/よく出来ました!) ●「ザバイカル」“Забайкалье”。「ザバイカリエ」「外バイカル」とも訳す。ロシア東部のバイカル湖東の広域名ザバイカリエ地方。現在のブリヤート共和国の一部及びロシア連邦のイルクーツク州に相当するとウィキの「ザバイカル」にはあるが、少し納得がいかないのでもう少し調べてみたところ、服部倫卓(みちたか)氏の「服部倫卓のロシア・ウクライナ・ベラルーシ探訪(ブログ版)」に以下のような記載を見出せた。『「Предбайкалье(プレドバイカリエ)」という聞き慣れない言葉に出くわした。「Задбайкалье(ザバイカリエ)」という言葉はもっとポピュラーで、「外バイカル」という意味であり、ヨーロッパ側から見てバイカル湖の向こう、すなわちブリヤート共和国およびザバイカル地方(昔のチタ州)のことを指す地名である。「プレドバイカリエ」というのは、「前バイカル」という意味だから、バイカル湖の手前という意味なのだろう。こちらのサイトなどを見ると、前バイカルというのは、実質的にイルクーツク州のことを指しており、同州の雅語になっているような感じがする。ザバイカリエ(外バイカル)とプレドバイカリエ(前バイカル)を総称し、単に「Байкальский регион(バイカルスキー・レギオン)」、すなわちバイカル圏と呼ぶ』。完全に腑に落ちた。 ●「プリアト」現在のロシア連邦を構成する共和国の一つである東シベリアのバイカル湖の南東部に位置するブリヤート共和国(Республика Бурятия ブリヤート語:Буряад Республика)周辺の地方名(ウィキの「ブリヤート共和国」に拠る)。ウィキの「ブリヤート人」には、『ブリヤート人はモンゴル族の一部であり、モンゴル先祖はバイカル湖から形成し始めてから草原地代へ進行する、モンゴル秘史に記載する蒼き狼と白い鹿がバイカル湖を横断して草原へ移動されモンゴル民族が発足する。バイカル湖周辺が人類文明の一原点であり、アルタイ諸民族の発祥地だとされる』とある。]

 と云ふうちに彼女は素早く支那服を脱いで、強健なオリイブ色の手足を朝の斜光に曝し出した。その上からジプシー一流の赤と黄色のダンダラの舞踏服に、何と云ふか知ら無い茶色の革紐を膝の下まで編み上げたスリツパ樣(やう)の革草履を素足にからみ付けて、靑天鷲絨(あをびらうど)のベレー帽を耳の附け根まで引下げた。その上から赤裏(あかうら)の靑マントを威勢よく引きまはして、紫と紅(あか)の房(ふさ)を引きはえた黄金塗(きんぬり)の鈴太鼓(ジヤンポン)を一個(つ)小脇に抱へると、籠から出た小鳥のやうに肩を一つゆすり上げた。

[やぶちゃん注:●「鈴太鼓(ジヤンポン)」「全集」では『ジヤンポンロ』とルビする。「鈴太鼓」は本邦では歌舞伎舞踊の小道具の一つで、胴の枠に鈴を付けた直径約十七センチメートルの扁平な小太鼓を指し、平凡社の「世界大百科事典」によれば(記号の一部を変更した)、『振鼓(ふりつづみ)ともいうが、胴に数個の鈴を入れたもの。歌舞伎では女方(おんながた)の踊りに用いられ、両手に持った鈴太鼓を、打ち合わせたり、膝や床を打ったりして音をたて、リズミカルに踊る。「娘道成寺」「男舞」「浅妻舟」や、「鏡獅子」の胡蝶の踊りなどに見られる。「娘道成寺」では、白拍子(しらびようし)花子が芸づくしの舞踊の最後に。『花に心を……』で鈴太鼓の踊りを見せ、鐘入りとなる』とある。ここでは以下に掲げた底本の挿絵を見ると、タンバリンのことであることが分かる(挿絵には「mae」と思しいサインがあるが、画家は不詳。底本とした国立国会図書館近代デジタルライブラリーでは書誌情報に本書全体が『インターネット公開(保護期間満了)』と示されているので、著作権侵害に当たらないと判断した)。このルビの「ジヤンポン」及び「ジヤンポンロ」というのは外国語ではなく、日本語のオノマトペイアか? 識者の御教授を乞う。]

 

Koorinohate5

 

 彼女は其處で、何でもいゝから僕の好きなものを彈いて見ろと命令した。多分さうして僕を試驗した上で、簡單な曲を口移しに教へる積りらしかつたが、案外にも僕が譜だけ知つてゐるジプシー舞踊曲「ドンドン燃やせ――深山(みやま)の焚火(たきび)」を大きなベース入りで彈き出したので、彼女は靑褪(あをざ)める位(くらゐ)驚いて……どうして知つてゐるか……と眼を丸くした。それから古めかしいコチロンやタンゴを二つ三つ彈いてゐるうちに、草の中でステツプを狃(な)らしてゐた彼女は、

「モウいゝ……それだけあれば澤山よ」

 と云ふかと思ふと、高い草を押し分けながら、ステツプを踏み踏みサツサと歩き出した。舞踏好きの彼女はもう哈爾賓の出來事なんかトウに忘れてしまつた樣に浮かれ出してゐるのであつた。

[やぶちゃん注:●『ジプシー舞踊曲「ドンドン燃やせ――深山の焚火」』不詳。二木紘三氏のブログ「二木紘三のうた物語」に作詞ポローンスキィ・作曲プリゴージィとして「私の焚火」という曲を確認出来る(曲も聴ける!)。これか? 識者の御教授を乞う。 ●「コチロン」これはどうもフランス風の古式のスクエア・ダンスのことらしい。“Cotilon”はフランス語でペチコートの意であると、「浜松スクエアダンス愛好会」公式サイト内の「スクエアダンス初めて物語」にあった。 ●「狃(な)らしてゐた」この場合は、ステップを慣らす、練習するの意である。]

 坊主頭の彼女のあとから草を押しわけてゆく自分の姿を振り返つた時、僕は涙も出なかつた。

 二人は、それから一枚の露國地圖を賴りにして、西比利亞(シベリア)の曠野(くわうや)を漂浪(へうらう)し始めた。……と云つても大した事は無い。ペトロウスカヤからハバロウスクに出て、其處から烏首里江(ウスリーかう)沿(ぞ)ひに鐵道線路を避けながら興凱湖(こうがいこ)へ出て、ニコリスクから浦鹽(うらじほ)に南下したものであるが、それでも三四百里(日本里(にほんり))ぐらゐの徒歩旅行であつたらうか。

[やぶちゃん注:「烏首里江(ウスリーかう)」ウスリー川(現行中国語:烏蘇里江/ロシア語река Уссури)。アムール川の支流の一つで、ロシア沿海地方・ハバロフスク地方と中国東北部吉林省・黒竜江省の国境を成す。ロシア沿海地方の中央を貫くシホテアリニ山脈を水源とし、ウスリー・タイガと呼ばれる松や広葉樹林の原生林を西に流れた後、東北に向きを変えてロシア・中国の国境を流れ、ハバロフスクの近くでアムール川に合流する。合流点に中露の領土争いの対象となってきた中州である黒瞎子(こっかっし)島(黒瞎子の中国語を音写すると「ヘイシャーズ」/ロシア側はостров Большой Уссурийский「大ウスリー島」と呼ぶ)がある。全長約八百九十七キロメートル、流域面積十九万三千平方キロメートルに及ぶ。中国側からの主要な支流は二つあり、一つは黒龍江省と吉林省の境に発し、黒龍江省を東へ流れ、穆稜・鶏西市などを経て虎林市付近で合流する「穆稜河」で、今一つはハンカ湖(後注参照)を源に国境を北へ流れて合流する「松阿察河(ソンガチャ河)」である(以上はウィキウスリに拠った)。 ●「興凱湖(こうがいこ)」ハンカ湖(о́зеро Ха́нка)の中国名(興凱の中国語を音写すると「シンカイ」)中国東北部の黒竜江省とロシア連邦の沿海地方との間の国境地帯にある広大な湖。中国側は黒龍江省鶏西市に属すが、市街からは百二十キロメートルも離れている。湖面面積は四千百九十平方キロメートルで、湖の北寄りに直線状の国境線が引かれており、南側三千三十 平方キロメートルがロシアに、北側千百六十 平方キロメートルが中国に属している。私は即、黒澤明の「デルス・ウザーラ」を思い出す。あの葦を刈る音は凄かったな。…… ●「ニコリスク」は底本では「ニユリスク」であるが、これは誤植と断じて例外的に「全集」の「ニコリスク」を採った。これは現在のロシア連邦の沿海地方南部にある都市ウスリースク(Уссурийск)で、ィキウスリースクによれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更した)、『かつては清国領で「双城子」と呼ばれていた。一八六六年、この地が清国領からロシア領になって六年後、ニコライ一世の名をとってニコリスコエ村が置かれた。東清鉄道との連絡を図るウスリースク鉄道の建設後、この村の重要性は増大し、一八九八年、ニコリスク・ウスリースキー市となった。一九三五年、スターリンの側近クリメント・ヴォロシーロフの名を取りヴォロシロフ市に改称された。スターリンの死後ヴォロシーロフは失脚し、一九五七年、現在のウスリースク市に改称された』とあり、本作の小説内時間の一九二〇年前後は「ニコリスク・ウスリースキー」が都市名だからである。『ウラジオストクの百キロメートルほど北に位置し、シベリア鉄道と中国からの鉄道(旧・東清鉄道)・北朝鮮からの鉄道が合流・分岐する交通の要衝である』。また『交易都市だけに中国・北朝鮮との密輸や日本車密輸、売春斡旋を行うマフィアの活動が盛んである。二〇〇四年には、ウスリースクを根拠にするマフィア幹部が自らの武勇伝や犯罪、投獄を「当事者」に演じさせた実録ドラマを地元テレビ局で放映させ、生々しい実話や実弾発射を用いたアクションなどで注目を集めた。なお、ウスリースクはウスリー川沿岸地方に経済的影響力を持つが、その名に反してウスリー川やその支流は流れていない』ともあって、この後の段のエピソードと合わせると、うひゃあ! って感じがする。 ●「浦鹽(うらじほ)」ウラジオストク(Владивосто́к 音写だと「ヴラヂヴァストーク」に近い)。ロシア極東部沿海地方(プリモールスキイ地方 Приморский край)の州都。ウィキの「ウラジオストク」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、『十九世紀末、日本海を通じての太平洋への玄関口として、また北に位置するロシアが悲願とする不凍港として極東における重要な港町に位置づけられ、ロシア帝国海軍バルト艦隊、太平洋艦隊の分遣隊がおかれた。これは、のちに強化されてウラジオストク巡洋艦隊となった。ウラジオストクには造船所やドックが建造されたが、これができるまでロシア極東にはまともな艦船の整備施設がなく、日本の施設に依存していた』。『日露戦争時には、ウラジオストク巡洋艦隊は通商破壊に活躍し、黄海海戦ののち旅順艦隊の残存艦はウラジオストク巡洋艦隊に合流した。日露戦争後はその構成艦船の主要なものがほとんどバルト海へ帰還し、太平洋艦隊はシベリア小艦隊に縮小された。一九〇五年までに中国領満州のハルビンを経由してモスクワとウラジオストクを繋ぐシベリア鉄道(一部、東清鉄道)が建設された。一九一二年に日本とウラジオストク航路に接続する国際列車が新橋駅(一九一四年からは東京駅)―金ヶ崎(後に敦賀港に改称)で運行される(ボート・トレイン)』。『ロシア革命後、ウラジオストクには、日本、イギリス、アメリカの干渉軍が進駐した(シベリア出兵)。一九二〇年~一九二二年の間、極東共和国の支配下にあり、各地から白系ロシア人が押し寄せたため、市の人口は、九万七千人から四十一万人までに増加した。一九二二年十月二十五日、最後の干渉軍部隊が撤収し、ウラジオストクは赤軍の支配下に入った。市の人口は、十万八千人にまで減少した』とある(作品内時間の当時でのそれは一九二一年)。『かつては非常に規模の大きな日本人街があり、一九二〇年頃(大正九~十年頃)には六千人近くの日本人が暮らし、日本とロシアの交流は非常に活発に行われていた。町には浦潮本願寺などがあり、日本人による商店や企業が多数進出していた』とある。 ●「三四百里(日本里(にほんり))」千百七十九~千五百七十キロメートル。起点の「ペトロウスカヤ」が不祥であるが、大体の位置から直線でハバロフスクとウラジオストクまでを計測すると、七百八十七キロメートルほどであるから、陸路徒歩となれば軽く千キロメートルは超えるので、誇張表現とは言えない。]

 それは僕の生涯の中で、一番思ひ出の深かつた……樂しいと云ふ意味ではない。自分の魂が空虛の中(うち)に消え込んでゆくやうな氣持での……生活であつたが、その詳細は此處に必要が無いから大略(たいりやく)して置く。別に「西比利亞漂浪記(シベリアへうらうき)」といふのを書いてゐるにはゐるが、これも尻切れトンボになつたから燒棄(やきす)てる積りだ。

 僕の腮鬚(あごひげ)とニーナの髮は、この漂浪(へうらう)中に可なり伸びて來た。僕の腮鬚は赤く縮れてゐたので、頭を坊主刈(ばうずがり)にしておくと、さながらのギリアークに見えたらしい。又ニーナはいゝ加減な斷髮少女に見えて來たのを、眞中(まんなか)から二つに分けて撫で付けてゐた。
 

[やぶちゃん注:「ギリアーク」ニヴフ。以下、ウィキニヴフに拠る。樺太中部以北及び対岸のアムール川下流域に住む少数民族で古くはギリヤークと呼ばれたが、現在では彼らの自称に基づいてニヴフ(アムール川下流部で「人」を意味する語)と呼ばれている。『アイヌやウィルタと隣り合って居住していたが、ウィルタ語の属するツングース諸語ともアイヌ語とも系統を異にする固有の言語ニヴフ語を持つ。アムール川流域のニヴフ語と樺太のニヴフ語は大きく異なる』。]

 二人が演ずる手風琴(てふうきん)とジプシーの踊りの一座は到る處の村々の人氣を呼んだ。山奧の富裕な村の結婚式や祭禮にぶつかつた時はへトヘトになるはど持て囃された。

 しかし雪が降つて來ると旅行のスピードが急に倍加して來た。驛傳(えきでん)の橇(トロイカ)を利用して、酒場酒場を拾つて歩かなければならなくなつたからであつた。
 
[やぶちゃん注:●「橇(トロイカ)」「トロイカ」(тройка)はもともと「三」「三つの組み」を意味するロシア語で、そこから三頭立ての馬橇(或いは馬車)を指す語となった。]

 僕は其の旅行中に色々な事を見たり聞いたりした。

 飢饉の爲めに洞穴に逃げ込んで死んだ一家族の木乃伊(みいら)を見た。赤軍の不換紙幣(ふくわんしへい)による強制徴集に應じなかつたために、虐殺されて、燒き拂はれた大村(たいそん)の中を通過した。赤軍の村(と云つても純然たる赤(あか)ではない。一番タチの惡い強盜半分の武裝部落)に這入つて訊問されかけたのを、ニーナが首領とウオツカの飮みくらをして胡麻化したこともあつた。白軍だかチエツコだかわからない兵隊を五人づつ針金で縛つて銃殺した死骸を、道端に何處までもどこまでも並べて在る荒野原(あれのはら)を通つた時には、二人とも息を詰めて生汗(なまあせ)を滴(た)らした。そのほか地圖に無い高い山や、大きな湖を發見したこと……西比利亞の住民に取つては赤とか、白とか云ふ思想がオヨソ意味ないものであること……それよりも一九一七年に露都(ろと)で組織された第一女軍(ぢよぐん)の評判が到る處に行(ゆ)き渡つてゐること……二度ほど出會つた大吹雪の恐ろしかつた事……生まれて初めて見たオーロラが神祕的に壯嚴(さうごん)であつたこと……興凱湖(こうがいこ)の月の夜(よ)に僕が何氣なく彈いて聞かせた「カツポレ」の曲を、ニーナがトテモ悲しくて踊れないと云つて涙ぐんだこと……なぞ思ひ出せば數限りもない。

[やぶちゃん注:●「赤軍の不換紙幣による強制徴集」今一つ、よく分からない。ロシア史にお詳しい方の御教授を乞うものである。 ●「チエツコ」これこそ先に注したチェーカー(ЧК)、レーニンによってロシア革命直後の一九一七年十二月に人民委員会議直属機関として設立された秘密警察組織「反革命・サボタージュ取締全ロシア非常委員会」(Всероссийская чрезвычайная комиссия по борьбе с контрреволюцией и саботажем)の通称ではあるまいか。英語では“Cheka”ドイツ語では“Tscheka”で、音写では「チェカー」「チェカ」とも表記するからである。 ●「露都」モスクワ(Москва́)。ソビエトによって首都機能が移転され、ソビエト連邦及びロシア・ソビエト社会主義共和国の首都となったのは作品内時間一九二一年の二年前の一九一八年であった。 ●「第一女軍」不詳。ソ連が第二次世界大戦時に前線に投入する組織的な女性兵隊組織を作ったことは知られているが、革命当時の公的な固有名詞として「第一女軍」らしきものは調べ得なかった。識者の御教授を乞うものである。 ●『興凱湖(こうがいこ)の月の夜(よ)に僕が何氣なく彈いて聞かせた「カツポレ」の曲を、ニーナがトテモ悲しくて踊れないと云つて涙ぐんだこと』文句なしに皮肉にステキに面白いではないか。……ニーナは和音階の滑稽節の底にしみじみとした仄かな哀しみを知る不思議な女なのである……。]

 二人が浦鹽(うらじほ)に來たのは別に深い意味があつての事ではなかつた。二人の變裝に自信が付いて來るに連れて、都會が戀しくなつたからでもあつたらうし、一つには夫れとなく哈爾賓の樣子を聞いてみたい……といふ僕の良心的な氣持ちの動きも手傳つてゐたであらう。翌年(今年)の正月の初めに、ニコリスクで白軍に押へられて、危なくスパイの嫌疑を受けるところであつたのを、ちやうどニーナから教はつてゐたジプシー語が役に立つて、無事に放免されたのは滑稽であつた。

[やぶちゃん注:●「翌年(今年)」大正十(一九二一)年。 ●「ジプシー語」ロマ語(ロマニー語)。インド・ヨーロッパ語族インド語派の言語でインドから北アフリカ・ヨーロッパへ移住した少数民族ロマ(差別的に「ジプシー」と呼称されたが、現在は「ロマ」が推奨されている)が使用する言語。以下、ウィキロマより引用する。『インド・ヨーロッパ語族とされるが、流浪した分だけあちらこちらの言語から語彙を借用語として取り入れている。男性名詞・女性名詞、単数と複数の区別がある。また、もともと自身の文字はなく、現在ではラテン文字で筆記されている』。『極初期のロマ語の実態に関する確かな歴史的な文献はない。また、ロマの先祖や、インド亜大陸からの移住の動機についてのどんな歴史的な証拠もない。ただ、インド・アーリア語における性区分』から、七~十世紀頃に『サンスクリットなどの影響を受けたと考えられ、ロマの祖先がインド亜大陸から出たのは』十世紀頃と推測されている。『南アジアからの出発の後、狭い範囲のクルド語とアルメニア語、比較的長期に滞在していたトルコのアナトリア地方の言語や、ギリシャ語の影響が認められている』。十三世紀前半に『始まるモンゴル人の欧州侵入は西方移住の引き金となった。ロマ人はその後、欧州の広い範囲に離散し、点在しているロマのグループは地方の共同体の分化が発生し、それは多くの異なった方言に分かれた現代のロマ語に大いに影響した』とある。]

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