雨夜の泣涕 村山槐多 ――「全集」編者に怒る!――
雨夜の泣涕
強き紫のひかり燈火より來れり
君思ひわれは泣きけり
ひそやかに暗き夜はわが涙の
冷めたき寶玉を拾ふ
とろとろと外に雨ふれり
薄くれないの雨かな、ふりしきるは
光陰顯す露はきらめくなり
電光時に雨に交はれり
わが思ひは滿たされたり悲嘆に
時に大理石めきたる明光
わが泣涕を滴らす薄紫に
樂音あり燈火あり暗夜あり
爛々と輝ける眼の底に
遠くはるけく映れり君の影ほのかに
雨ふりの薄明り見すかせば
わが涙は寶玉なり五色の虹を交へたり
強き紫のひかり薄らぎゆけり
薄紅の虹もてる暗夜に
爭鬪不可思議にわが神經をこそこめたれ
美しく一滴の赤血したたれりその上に
[やぶちゃん注:題名と第三連三行目の「泣涕」が「全集」では孰れも「涕泣」に変えられている。これは一体、どういうことか?!――「涕泣」は「泣涕」とも書くことは周知の事実で、辞書にさえちゃんと載っている。高等学校の漢文の授業でさえ私は教授したことがある。底本が二箇所ともこうなっているのは明らかに誤植とは思われない。槐多自身の草稿が「泣涕」であったと考えるのがごく自然である。草稿も校正稿も残っていないとすれば、誰が一体何故何のために、こんな書き換えをしたのか? 答えは一つしかない。――「全集」編者である山本太郎氏が、自身、「泣涕」に対して語幹上の違和感を覚えて、勝手により一般的な「涕泣」に書き換えた――のである。しかし私は、こんなことが「全集」詩篇編纂時に許される行為だとは、全く以って思わない。これはここでどうしても一度、声を大にして叫んでおくものである!!――
「薄くれない」はママ。]