日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十章 陸路京都へ 箱根寄木細工
二つの部屋が相接する家にあっては、これ等の部屋は床にある溝と、上から下る仕切との間を走る、辷る衝立(ついたて)で分たれるに過ぎぬが、この仕切の上の場所は通常組格子の透し彫りか、彫刻した木か、形板で切り込んだ模様かで充してある【*】。これ等の意匠の巧妙と趣味、及び完全な細工は、この地方に色木の象嵌細工をつくるのに従事する人が多いことに因る。箱板は色をつけた木の、いろいろな模様によって、美しい効果を出した箱や引出のある小箱や、それに似たものを盛に製造する土地である。
[やぶちゃん注:箱根の寄木細工(よせぎざいく)は、『様々な種類の木材を組み合わせ、それぞれの色合いの違いを利用して模様を描く木工技術で』、『日本においては神奈川県箱根の伝統工芸品として有名であり』、二百年ほどの歴史を持つとウィキの「寄木細工」に記されるほどにここ箱根が有名である。足柄下郡箱根町畑宿の株式会社金指(かんざし)ウッドクラフトの公式サイト内の「箱根寄木細工の歴史」に詳しい。それによれば、『箱根細工は、轆轤(ろくろ)を使って器やお盆を作る「挽物細工」と、板材を組み合わせて箱や箪笥を作る「指物細工」に大別され』るが、『箱根地方は日本国内でも特に樹種の多い地域で、古くから多くの木工芸品が生産され』、『戦国時代には既に箱根の地で木工芸品が作られていたという記録が残っており、当時は挽物細工が盛んに作られていた』らしいとあって、特に江戸時代になって東海道が整備されると、『湯治土産として箱根細工は広く知られるようにな』ったと概括する。寄木細工のルーツは十七世紀半ば、『駿府の浅間神社建立にあたって全国から集められた職人によるものと考えられて』おり、それから約二百年の間に『寄木細工の技術は静岡で発展し』たとある。江戸中期に湯治で箱根が賑わうようになると、『従来の挽物細工のほかに、指物細工も多く作られるようになり』、江戸後期、畑宿に生まれた石川仁兵衛(寛政二(一七九〇)年~嘉永三(一八五〇)年)『が静岡から寄木細工の技術を持ち帰り、それを取り入れた指物細工を作り出し』、ここに本格的な箱根寄木細工が誕生したと記す。以下、モース来訪の前後に亙る「海外に紹介された寄木細工」の叙述を引用させて戴く。
《引用開始》
ペリー(1794―1858)の来航によって下田が開港すると、畑宿の「茗荷屋」が海軍へ売り込みをかけ、箱根細工は定番の土産物になります。横浜が開港すると、漆器、陶器などに混ざって寄木をはじめとする箱根細工も輸出され、神奈川一帯の発展に大きく寄与することになりました。
シーボルト(1796―1866)も江戸参府の際に箱根に立ち寄り、寄木細工を見たという記録が残っています。実際、彼がオランダに持ち帰った工芸品の中に、寄木細工をあしらったものがあります。
明治30年代、湯本茶屋の物産問屋、天野門右衛門らが中心となり、「箱根物産合資会社」が誕生します。箱根物産合資会社は数々の外国商会と活発な取引を行い、寄木細工を世界に発信して行きました。1904年、箱根物産合資会社はセントルイス万国博覧会に寄木細工を出品します。
《引用終了》
1904年は明治三十七年である。一時、衰退したものの、引用先の「金指勝悦」などの努力により再び盛り返している(私は実は個人的に箱根の寄木細工や木製こけしに対して幼年期のある記憶から特に強い愛着を持っている。今も目の前の書斎の本棚にそれらは飾られてある)。]
* この細部を欄間と呼び、私が見た多くの興味ある形式は『日本の家庭』に記載してある。
[やぶちゃん注:既にこの欄間の箇所の一部を「第十七章 南方の旅 欄間」の注で図入りで紹介した。今回は、“Japanese homes and their
surroundings”(1885)の斎藤正二・藤本周一訳「日本人の住まい」(八坂書房二〇〇二年刊)の「第二章 家屋の形態」から、まさにそこで引用した箇所の直前の部分ある(二段落前)、まさにここ箱根村で見てスケッチした部分の解説と附図(キャプションとも)を引用させて戴く。これはまさに本段落をよりよく理解するためには欠くべからざる、学術的にも翻訳著作権の侵害に当たらぬ正当なる範囲での引用であると信ずる。二つ目の段落(『そして、丹念に仕上げてゆく。』)の次が改行されてリンク先の『大和の五条にある旧家の欄間は、……』に繋がっているので、続けて読まれることをお勧めしておく。スケッチは底本では本文の各所に配されてあるがここでは前に纏めて出した。ルビは総て同ポイントであるが、私の判断で拗音化してある。言わずもがなであるが、「ソリッド・プランタ」の読みは「硬質の板」に対するルビである。また、当該書原文でモースは和名を“ramma”、解説のある箇所では英語圏の読者に理解出来るように“panel”と記している。
《引用開始》
144図 箱根で見た欄間。
145図 竹の欄間。
146図 東京にある磁器製の欄間。
147図 竹と透彫の板とも組合わせた欄間。
一四四図に示した模様は、箱根村の旧家の欄間のものである。その部屋はかなりの大広間で、欄間は四面からなっており、欄間の長さは約二四フィートくらいであった。竹の簡素な格子細工は欄間には格好のしかも一般的な意匠(デイヴァイス)である。一四五図はこの種の素朴なものの一例で、よく見かける。東京のさる家で、同様の意匠で磁器製のものを見たことがある(一四六図)。――中央部縦の模擬竹はあざやかな紺色で、水平にしつらえた細めのものは白色であった。透彫でなくとも、模様のあいだの部分的な空間はそのままつぎの部屋に通じている。この素通し(オープン)の欄間があるため、襖を締めきった場合でも、部屋の通風がじゅうぶんに確保されるのである。透彫板と竹格子とを組み合わせたものもよく用いられている(一四七図)。
意匠と製作の面で高度な技術を必要とする欄間の場合は、木彫職人(ウッド・カーヴァー)は硬質の板(ソリッド・プランタ)に下絵(デザイン)を描き、ついで下絵の周囲の木部を削り取り、これによって下絵を浮き出させる。そして、丹念に仕上げてゆく。
《引用終了》
・「二四フィート」七メートル三十センチメートル強。]
図―645
[やぶちゃん注:右の平面図が「644」、左の立体図が「645」。]
図―646
各種の木片は、図644に示す如く、膠でしっかりくっつけて一の塊となし、それを図645のように横に薄く切ってその他の形式のものと共に、箱の蓋や引出の前面を装飾するのに用いる。以上二図は実物の二分一大である。図616は灰に埋めた僅かな炭火の上に膠壺を置き、細工をしている人を写生したものである。意匠は際限無くこみ入っているが、それに就て面白いことは、細工に用いる道具が、あたり前の大工道具に過ぎぬらしいことである。細工人は床に坐り、仕事台として大きな木片を使用する。
[やぶちゃん注:箱根町湯本の有限会社本間木工所の公式サイト内の寄木細工体験教室の案内のページにある『伝統的文様の寄木コースター』の紋様が図644に近い。何時か、モースの描いたものと同じもの同じ形のものを探してみたい。]
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