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2015/07/23

三重県立美術館蔵村山槐多新発見詩篇 紫の天の戰慄

 

   紫の天の戰慄      村山 槐多

 

1雨ふれり

 雨薄くれなひにそことなくふる、癈人の血を帶びて

 薄暗きこの山麓にふれり

 ぬれて立つわが口には薄紫にいと惡しき草煙る

 不思議なる味とにほひと

 

2時にする快よき銀の音樂

 渦卷は金銀にきらめくよ情の渦卷

 わが神經の動かぬ淵に

 この渦卷にわが口に煙草は消え入る

 薄紫の物凄きひびきをつけて

 

3鋭どき山形眼を打つ

 雨はしたたる山の方

 綺羅を盡せし黒人のあやしき姿

 貴婦人の唇ちかき黒き星

 それにも似たる黒き山のあなたに

 

4惱める山の美貌に

 赤き杉の群に時に風狂ひ

 ときは木の葉は淫蕩をつくしてぞ散る

 涙浮べて物皆は戀を語れば

 わが心ふとかなしげに泣きそめつ

 

5すすり泣きしつ

 紫の天この時髙く戰慄す

 あざやかに冷冷と戰慄すなり

 冬の衣に身をかため人の働く

 水田の濁りたる水にも天は戰慄す

 

6無知なる水田はまたたきす

 ぬれて立つ哀れなるわれの上下に

 なげくとてか恐るるとてか泣くとてか

 紫の天戰慄美しく深く

 わが煙草のけむり上りゆくその天は

 

7雨ふれり

 雨薄くれなひにそことなくふり

 冷めたき足なみものみなの情の上に

 黒き山に赤き杉に水田に

 はたわが心の※(や)れたる淵の上に

[やぶちゃん字注:「※」=「疫」の「殳(るまた)」の左側に「弓」のような字が記された字体。]

 

8金銀と濃き紫との毒々しき淵の上に

 雨薄くれないひに風打ふるふ時

 天は絶えず戰慄す大きく冷めたく

 われを恐れてか わが眼と情の光とを

 美しき薄紫の煙草を

 

9恐れてか

       大正三年 一月十八日 江州にして

 

                     (落款)

 

[やぶちゃん注:県立三重美術館蔵「詩『紫の天の戦慄』1」及び「詩『紫の天の戦慄』2」の手書き稿を視認して起こした(リンク先は同美術館公式サイトのそれぞれの拡大画像)。署名もそのままである。使用漢字はなるべくそのままのものを採用した(例えば「神」は「神」ではなく、明確に「神」と書いている。「卷」か「巻」か等の迷ったものは正字を採った。向後、三重県立美術館蔵の原稿視認ではこれで行くので、以下ではこの注は略す)。

 詩のヘッド・ナンバーの「1」から「5」までが前者、「6」以降が後者(それぞれ紙色も四辺の形状も全く異なる別な紙片)に記されてある。

 書誌情報はクレジット(「詩『紫の天の戦慄』1」 同2 )にある通り、制作年を大正三(一九一四)年とし、材料は墨と紙とし、孰れの紙片も寸法を縦二十三・一、横三十一・七センチメートルとする。「1」の紙の色はかなり強いピンク色を呈しているのに対し、「2」はずっと赤みの落ちた代赭色である。しかし規格が全く同一のところを見ると、もとは同一の色附きのノート様のものであった可能性もある(色の有意な違いは後者が焼けて褪せたためかも知れない)。

 「2」の最後の「(落款)」とした位置には手彫り手製の、「カイタ」と中央にあるカット・ダイヤモンドのような(或いは瞑目した顏のカリカチャアのような)落款が押されてある。薄い黒い印肉を使用したものか、本文よりも落款は遙かに薄い。

 本詩篇は「9恐れてか」で途絶しているので未定稿であるが、連番の数字から纏まったものとして読むことが出来るもので、しかも驚くべきことに――恐らくアカデミックには旧知の事実であって驚いているのは気づくのが遅かった鈍愚な私だけなのであろうが――本詩篇は彌生書房版「増補版 村山槐多全集」にも載らない――ということはそれまでに公刊された村山槐多の知られた作品集にも載らない――全くの新発見の未定稿詩篇であるということである(二〇一五年七月二十三日現在、ネット検索をしても電子化された形跡はない)。一読、用いられている詩句や全体の詩想もクレジットの同時期(満十八歳)の詩篇類と非常に強い親和性を感じさせるものである(私のブログ・カテゴリ「村山槐多」の「槐多の歌える」の「千九百十四年(20)」詩篇パートに準じた吾詩篇から「赤き火事あと」までの二十六篇参照)。以下、語注を附す。

 

・「癈人」はママ。「癈」は実際に或ある字ではある。音「ハイ」で、不治の病い・痼疾・障碍者になるの意であるから、字義的には「廢人」(廃人)と同じで問題ない。

・「はたわが心の※(や)れたる淵の上に」[(「※」=「疫」の「殳」の左側に「弓」のような字が記された字体)は前で注した「癈」の(やまいだれ)の中の「發」の「癶」(はつがしら)がとれたものに酷似している。当初、私は「疫」の字の誤記かと思ったが、今はどちらかというと「癈」の字を書こうとした可能性、或いは単に「廢」と同字扱いで槐多が好んで用いた可能性の方を考えたくなっている(確かに(やまいだれ)の方がテツテ的によいと私も思う)。また、「や」というルビはこの字の右手上方に配されてあり、「や」の下に何か書こうとした可能性も否定出来ない。その場合、「癈」字の原義からは「(やつ)れたる」等は想起出来る。但し、私は初読、「疫」であろうと「癈」であろうと或いは「廢」であろうと、対象が心の「淵」であり、その形容である以上、自然に「破(や)れたる淵」と読んでいたし、今もそう読んでいる。即ち、病んだ心の「荒れ果てた淵」の意である。大方の御批判を俟つものではある。

・「江州」クレジットの大正三年一月というのは、京都府立第一中学校卒業の二ヶ月前で、この六月に彼は上京する。この卒業直前の一、二月の部分には、どの年譜にも記載がないので、彼が滋賀近江へ行ったのかどうかは確認出来ない。出来ないがしかし彼が行ったのであろう。ただ少し気になるのはロケーションが琵琶湖湖畔ではない点である。水田(因みに私は「みづた」読んでいる)の広がる田園風景であるが、その遠景にだに琵琶湖の湖水はフレーム・インしていない(ように私には見える)。私は実は滋賀県は電車で通過したことがあるだけで琵琶湖湖畔に立ったこともない。この情景からロケ地が推定出来る方は、是非、御教授願いたい。]

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