夢野久作川柳集Ⅳ
[やぶちゃん注:以下の川柳三句は西原和海編「夢野久作著作集 1」に載る「歌芳子夫人追悼川柳会」という標題で載る夢野久作の筆になると西原氏が推定する文章(同氏の解題によれば『九州日報』昭和二(一九二七)年六月二十七日号に掲載されたもの)中に現われる夢野久作の柳号「三八」名義で載るものである。歌芳子夫人というのは『九州日報』主筆篠崎昇之介の妻歌子の柳号。「かほうし」と読むか。諸川柳から察するに未だ若妻であられたようである。当該文によれば、追悼川柳会は同年六月二十二日午後七時に福岡市外吉塚の篠崎卓応接間にて夫昇之介(柳号「南蛮鉄」)を『はじめとして男ばかり総計十一人』、正会は故人の本名の「歌」と「子」を読み込むもので、その後に即興題で「線香」も詠まれた。久作(三八)のものは互選入選の総評の「子の部」に三句載っている。評も一種の自注と思われる。久作満三十八歳。
最後に『九州日報』についてウィキの「九州日報」を参考に記しておく。事業者は「九州日報社」(本社は福岡県福岡市中島町、現在の福岡市博多区中洲中島町にあった)で、明治二〇(一八八七)年八月に玄洋社系の新聞『福陵新報』(社長は右翼の巨魁頭山満で久作の父杉山茂丸は頭山の腹心として知られた。久作の当社への入社もその縁故による)として創刊された日刊新聞で、福岡県を中心に九州一円で販売されていた。現在の『西日本新聞』の前身の一つで明治三一(一八九八)年五月に紙名を『九州日報』に改題、大正一五(一九二六)年十月には株式会社九州日報社に改組している(その後、昭和一五(一九四〇)年に読売新聞社(現在の読売新聞東京本社)の経営に移管、二年後の昭和十七年八月十日には新聞統制によって『福岡日日新聞』と合同され、『西日本新聞』となり、翌年には福岡日日新聞合資会社と合併して九州日報社の社名も消滅した)。同紙「関連人物」としては、浪曲師でかの辛亥革命を支えた革命家宮崎滔天が『「番外記者」として活躍』、「夢野久作」も『遊軍記者として活躍。関東大震災の際は九州日報の記者として被災地を取材』した旨の特記がなされてある。]
目もみえぬ赤兒に幟(のぼり)見上げさせ 三八
[やぶちゃん注:続いて「アカ坊」なる会員の一句、
若い父嬰兒(あかご)へ旅の歌をかき
という句を併置し、『評』として『此二句、好取組。但し、後者働きあり。』とアカ坊の句に軍配を挙げている。]
子を抱いた奴は洗はず湯に這入り 三八
[やぶちゃん注:後の『評』に『近來の臭句。川柳だから我まんできたもの。』とある。]
生れ不思議のやうに子をながめ 三八