●延福寺蹟
淨妙寺域内西北にあり。足利左馬頭高義其(その)母契忍禪尼追福の爲。爰に創建し。山を雲谷と名け。足庵を開山祖とすと云ふ。觀應三年二月廿六日。直義入道惠源當寺に在(あつ)て頓滅(とんめつ)せり。
[やぶちゃん注:「鎌倉廃寺事典」によれば、室町中期、享徳三(一四五四)年成立の「殿中以下年中行事」に足利氏菩提寺十二箇寺の中に見えるのを最後として、廃寺年代は不詳である。現在、比定地の竹林の奥に足利氏一族のものかと思われるやぐらと石塔が辛うじて残っている。以上は、浄妙寺蔵「稲荷山浄妙禅寺略記」に基づく「新編相模国風土記稿」の記載であるが、「鎌倉廃寺事典」でこれは当該部分『契忍禪尼爲早世左馬頭高義、剏建延福壽聖禪寺、以薦冥福、請足庵麟和尚爲一世』の読み誤りであって、「爲早世」は『高義にかかり、したがって開基は高義でなくその母契忍禅尼貞氏室であって、早世した高義の為にこの人が建立した、という意味に解するべきである』とある。足利高義は貞氏の長男で母は正室であった北条顕時の娘釈迦堂殿で、これが後の契忍禅尼である。足利尊氏・足利直義(ただよし)の異母兄で、彼らの母は貞氏側室で勧修寺流上杉氏の上杉頼重の娘清子(後に大方禅尼)であった。ウィキの「足利高義」によれば、『元服に際して、北条氏得宗家当主の北条高時』『より偏諱を受けて』『高義と名乗』っている。『鎌倉時代の足利氏嫡流家の歴代当主の諱はこれまで「得宗の当主の偏諱+通字の「氏」」で構成されてきた』にも拘わらず、『高義の名には「氏」が付かずに清和源氏の通字である「義」の字が使われている背景にはこの当時の足利氏と北条得宗家の良好な関係の象徴であり、北条得宗家が足利氏の鎌倉将軍および得宗家への忠節と引換に「源氏嫡流」として認められたとする見方もある』とあり、本来ならば彼が足利家棟梁として君臨するはずであった。『左馬頭に任じ、延福寺殿(円福寺殿)と号したことが系図に見える』『が、早世したために詳細な足跡は不明である』。正和四(一三一五)年十一月に『「足利左馬助」名で鶴岡八幡宮の僧侶・円重に対して供僧職安堵の書状を出しており(「鶴岡両界壇供僧次第」)』この時既に、『足利家の家督を継承していたらしい』ことが窺える。ところが、三年後の文保二(一三一八)年九月には、『家督を譲ったはずの父・貞氏が再び安堵状を出しており、この時までに高義は没したと考えられている。足利氏歴代当主の死没日がほぼ正確に記載されている『蠧簡集残編
六』所収「足利系図」には高義の死没日も記載されており』、それに基づくなら高義は文保元(一三一七)年に没している。『また、『前田本源氏系図』の高義の注記には「左馬助、従五位下、早世廿一、」と』あって、享年二十一としており、これを採用するならば生年は永仁五(一二九七)年生まれとなる、とある(下線やぶちゃん。因みに貞氏次男で異母弟の足利尊氏(初名は「高氏」)は嘉元三(一三〇五)年生まれである)。一方、「風土記稿」には割注で本寺は別に『圓福寺』とも書いたとあり、この「圓福寺」という寺名は、元亨三(一三二三)年の「北条貞時十三年忌供養記」(「鎌倉市史 史料編第二」の円覚寺文書第六九号一〇三頁。得宗貞時は第九代執権で応長元(一三一一)年没)の「諸山布施」の項に『円福寺〔聡愚〕』とある(「市史」には「明極」と傍注されているから、これは元からの渡来僧であった明極楚俊(みんきそしゅん 弘長二(一二六二)年~建武三(一三三六)年)であることが分かる)。以上を綜合すると、「鎌倉廃寺事典」が推定するように、浄妙寺の開創は文保元(一三一七)年以降で、元亨三(一三二三)年には既に建立されていたことが判るのである。因みに、明極聡愚について調べるうち、宮城県公式サイト内の文化財の中に、宮城郡松島町瑞巌寺蔵の「雲版」(重要文化財)の記載(画像附)を見出した。そこに、『この雲版は、瑞巌寺が伊達政宗によって建てられる前に、鎌倉時代からあった円福禅寺の庫裏にかかっていた雲版である。表面中央牌上に「円福庫院雲版」と鋳出し、下に蓮華状の撞座、左右に雲上の日月とを表している。住持明極誌嘉暦丙寅秋という銘を刻しており、北条貞時の十二回忌に円福寺住持として請僧を務めた九世明極聡愚和尚が』、嘉暦元(一三二六)年に作らせたとみられる、とある(下線やぶちゃん。ただこの叙述の内、『北条貞時の十二回忌』というのは没後十五年が経過しており、おかしい)。雲板の画像も是非、確認されたい。
「足庵」「鎌倉廃寺事典」に足庵祖麟とし、「延宝伝燈録」には寿福寺・万寿寺に住持したことは載るものの、この延福寺に就いては記載がない、とある。
「觀應三年二月廿六日。直義入道惠源當寺に在て頓滅せり」二頭政治から兄尊氏と離反した直義は鎌倉を拠点として反尊氏勢力を糾合しようとしたが、東海道で連敗、鎌倉で武装解除されて本寺に幽閉された直義は正平七/観応三・文和元(一三五二)年二月二十六日に急死している。一般には病死とされているが、「足利系図」「太平記」では尊氏による毒殺と記す(私もそう思う)。享年四十七であった。]
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