一九一八年の末にお玉さんに言ふ事 村山槐多
一九一八年の末にお玉さんに言ふ事
お玉さん
あなたはまだ生きておいでですか、健康ですか、あのスペイン風邪になぶられませんでしたか、
あなたの唇の色はやつぱり椿の花の色の樣に輝いて居ますか。
いや、いや、是等の問ひを掛ける事は何たる愚な事でしやう。
もしあなたが死んで居たら病氣であつたら、あの美しい唇が紫色にかはつて居たら。
私がかうやつてどうして平然とあなたに言葉をならべて居られましやうか。
あなたは生きて居るにきまつて居ます。
あなたが依然として健康に生をつづけていらつしやるに相違ない證據はいまこの瞬間私が活々としたあなたの全存在をすこしの苦もなく何の不自然さもなくまざまざと眼前に考へる事ができる事です。
いつでもあなたに會へると云ふ事は何の疑念もなく信じられるからです。
もしあなたが何かの不幸に會つて居れば、あなたの靈がどうして空間を通じて私の心の何等かの感應を起こさずに居りましやう、私の前に鳥の群が不吉な聲をあげて泣く事があらずに過ぎませう。
どうして私がたとへ地下の牢屋の中に居たとても、あなたの運命に無智で過ごす事があり得ませう。
あなたは丈夫なのです、そして幸福なのです、あなたはやはり以前と同じくいや以前に倍して美しいのです、輝やいて居るのです。
お玉さん、私はいまあなたにあてゝ言ふ事をもしあなたが感じて呉れたなら、この思ひが屆いたならば。
私は事實無線電信の技手の樣にあなたに向けて言つて居るのですよ、ただあなたの靈をあてにして言ふのですよ、電波が必ず千里の先に感ずる事がたしかである樣に、この私の思ひがあなたの心に感ずる事はたしかなのです、必ずあなたは感ずるのです、ただこの言葉をあなたが了解するか、どうか、暗號が解き得るかどうかが問題です、私はこんな風にあなたが私のいま念じて居る事を感じる事と想像します。あなたはどこかに居る、あなたはふと氣がふさぎ始める、あなたの瞳は深く据つてきてじつと遠いところを見つめる、まるで百万里もさきの事をうかがはうと云ふ樣に。あなたは首をすこしかたむける。
何となくあなたの心は涙ぐむ、さびしさがけぶる、「どうしたのだろう妾は何をぼんやりして居るのだろう、どうしてこんな風になるんだろう」とあなたは考へる。
しばらくするとあなたは笑つて「何でもないんだわ、陽氣の故なのよ、ま、お茶でものみましやう」とふたたび元にかいる。
たゞそれつきりなのだ、あなたはその時、私と云ふ事の微塵すらも感じないのでしやう。
しかるにあなたのその瞬間に、私ははつきりとあなたの耳にささやいて居るのです、
はつきりとあなたの靈に物語つて居るのです、だからもしその時あなたがふと新聞紙でも手にして居て「村」と云ふ字と「山」と云ふ字とを偶然一所に眼に入れでもすれば、あなたははつきりとその「妙な氣分」の全幅の意味をさとる事でしやう、
「村山」と云ふ男の事があなたの心のけむりの如くひろがるでしやう。
お玉さんあまりに是等の空想のうぬぼれめいて居る事を許して下さい。
けれども私はこんなスビリチユアリストめいた考を抱く程に眞に深く眞に強くあなたを思つて居るのです。
命をあげてあなたを思つて居るのです、
私は時としてびつくりするのです、自分自身にびつくりするのです、
「そんなに、お前はあの女を思つて居るのかね、そりやまあほんとかね」と私は眞顏になつて自身に何度たづねたことでしやう、しかしそれは絶對にほんとなのでした、あなたは私の水です、鹽です、天です、地です。
お玉さんあなたが無くては私は生きて居られなかつたのです、是程の思ひを私が持つて居ながらいや私の全部をこめてほとばしるこの思ひが、お玉さんあなたに毛程の反應をも示さないと云ふ事を私が信じられましやうか。そんな殘酷な斷定の元に自分の戀を持つて一時でも生きて居られましやうか。
私はこの思ひが單にあなたに達したと云ふ事だけでも信じなければならないのです、
それでなくては生きて居られないのです。
悲劇役者が最も悲劇的に演じたる自分の印象が觀客を泣かせるかはりに大笑さした場合の悲哀とさびしさは耐へがたい物でしやう、しかしながらそれとても一人の觀客もない劇場を持つて居るよりは幸福なのです、生きて居る事はすくなくとも出來るのです。
その故にお玉さん、私に言はして下さい、この言葉を認容して下さい。
「あなたは絶えず、いまでも私を感じて居るのです、私があなたの事を思ふ時は、あなたはどこに居ても、どんな時にでも、やはり私の事を心に思ひ起すのだらう」と。
いやいや、これは言ふまでもない事なのです、どうしてあなたが私の事を感じずに居られましやう、私の幽靈を見ずにすまされましやう。
あなたはそれどころか絶えまなき苛責を私について感じて居るのかも知れません。
その苛責を私はあなたに強めてあげたいのです、かき立てたいのです。
お玉さん。
私は今年の春あなたの結婚の事をきゝました。
その時たしか二三人の友人がそばに居た樣に思ひました、あなたの結婚の報告を私はかなり平然とききました、そして大きな聲で笑つたと思ひます、それにつれて二三人の友人も何か戯談を言ひながら、しばらくにぎやかに笑ひくづれました、しかしその實ひがしづまつたあとの私の心の中はどんな色をして居たとお思ひですか、この笑ひは美しくよそほつた寶石にかざられた、らくだの列、豪華なアラビヤの隊商の列でした、その過ぎ去つたあとには、やつぱり茫漠たる荒れすさびた砂漠がのこつたのです、この砂漠のさびしさは耐へがたい物ではありませんか、私はなぜ笑つたかと思ひました。隊商をとほしたあとは以前よりさらにさびしくなるにきまつて居るのです、私は灰色の沈默に落ちました、恐らくその時、すこしでも私を觀察した人があつたならば、この世にまれなる程の絶望の影と云ふよりむしろ他界の影が私の心にふりさがつて居るのを一見して見てとれたのでしやう。しかしだれもこの報知が私をいささかでもかなしませると思ふ人は居ませんでした、私があなたの事をあまり口にしなくなつてから、かなり久しいあとの事でもあり且人々は、私のあなたに對する戀なる物を正氣の沙汰とは思つて居ない樣でした、誰も戯談としての Affair と扱かつて居たのです。
それに私の思ひ切つて下品な嘲笑的な戯口が私の悲哀をごまかすのに充分でありました、しかし私は自分自身をごまかす事は思ひもしませんでした、私のいささかなりとものこつて居た「幸福の燭」はその刹那にむざむざと吹き消されてしまつたのです。私はそのあと獨りぼつちになつて、あなたをつくづくと考へてみた事をおぼえて居ます、あなたの結婚と云ふ事は本質的には私の感情に向つて何の價格も持つて居ないわけなのです、失戀はすでにその以前に定まつて居た事實なのです物、私はあなたから全然レヒユーズされて居る男なんです物、そのあなたの一つの行動が私の感情に何の義務と責任とを持ちましやう、私はそんな風にまづこの事を考へ込んでしまはうと努めました處が私は泣けて來ました、私の眼は涙でかくれてしまひました、「意氣知のない奴め、何の理由がお前を泣かせるのか」
と私は自分にたづねました。
「もしお前が泣くとすればそれはお前があの女にレヒユーズされた、あの時がその時だつたのだ、その時に泣きつくして涙を涸らしつくさなければならなかつたのだ、そのあとの機會でお前はもう泣く權利はないのだ」と私はどなりました、しかし涙はやはり流れました、私はまつたく俄にしよげてしまひました。
ああお玉さん、あなたはそのすこしまへ私の友人に私の事を二三度尋ねて下すつたさうですね、あなたはなぜそんな事をなすつたのです、さう云つた事がどれだけ私のお目出たさを浮からした事でしやう、そしてさう云つた事があなたの結婚と云ふ事から生じた私の幻
滅をどれだけ深いものにしたでしやう、この弱音を私は心からあなたにうつたへます。
私はせめて合理的にでもあなたに勝たうとしました、しかしそれは徒勞でした、且自分で思ひ切りました、私はあなたに負け、あなたにふみにじられても好
いのです。
そこに一すじの蜘蛛の糸めいた幸福福がのこつて居るのです、あなたにふみにじられて居ると云ふ事に私はまだ生きて居られると云ふ幸福があるのです、もし私があなたと戰はうと云ふ意志を持てば生きて居られないのです。
お玉さん、私は吹き消された、「幸福の燭臺」を前にしていかに長く闇の中に坐つて居た事でしやう、今でもその闇はつづき私の沈思はつづいて居ると云ふ事を知つて下さい、
そして私がやはり全部の私をあげて暗の中より私の「燭」を吹き消したあなたの息をあなたの美しい唇をあなたの喉を、あなたの血を思つても身ぶるひするその肉體をその靈を垣間でも見やうとひたすらに念じて居る者である事を知つて下さい。
私はあなたの結婚の事をきいて一月もたゝない内に恐ろしい運命に立すくみました、私は肺炎に襲はれました、全身のつかれなやみたる血は、肺のやぶれ目をこじあけて數千の火蛇の如く外へのがれ出ました。
數回の喀血は私を半ば死神の穴ぐらへひつぱり落しました、がまた私は生の力をとりもどしました、まる九箇月の後やつとほゞ私は舊態にかへつたのです、
この失戀者はまたかた書きを一つ加へたのです、肺病人と云ふかた書きを。
お玉さん、あなたはこの私の言葉をきいて何か、あなたの結婚が私の肺病をみちびいた樣にお考へになりませんか。
そんな事は大した誤りですよ、私はそんな風に考へられる事を最も恐れます。
それのみか私があの恐ろしい病氣のクライマツクスに達して居ながらまた回復し得たと云ふのはやはり、あなたと云ふ物があつたからだと思つて居るのです、あなたに對する愛が私の肉體に生の力をかぎりなく生かして呉れたからだと思つて居るのです、お玉さん。
私にとつてあなたは命のすくひ主です、私の生活は、あなたに對する愛によつてささへられて居るのです、私はいつまでもあなたを愛しなくてはなりません、それを許して下さい、
あなたの結婚は幸福ですか、いやこの問ひは愚かです、あなたのそばにどうして不幸があり得ましやう、ああ、この事を考へると私は嵐の中をとばされる樣です、ねたましさは私の全身をやきます。
私の闇はますます深いばかりです、
ああしかし何のためにこの闇がのろいえましやう、あなたはわが太陽です、灯です。
私のねがう所はただあなたの幸福です、明るさです、私は私の闇を、さらに、さらに暗くしましやう。
あなたの明るさを、さらに、さらに明るくするために。
お玉さん、もう私はこれでよします、もしよさないと私は死ぬまで書きつづける事になりましやうから。どうか、どうかさきに申した樣に、この暗から光への消息が、私の思ひがせめてあなたに達するだけは達する樣に。
是は神さまにいのるのです。ではごきげんよう。
あなたの暗なる
槐多より
お玉さま、
[やぶちゃん注:本篇は「全集」では何故か、「日記」の大正七(一九一八)年のバートの最後(直前の日記は九月二十五日)に配されてある。しかも末尾には編者によるものとしか思われない『〔一九一八年作〕』というクレジットまで入っている。「日記」と同じノートに書かれていたとしても編者も『作』としているように、これは一種の散文詩である。だからこそ底本「槐多の歌へる」にもここに入っているのである。これは按ずるに、編者山本太郎氏がこの如何にも世俗的に、槐多がストーカーした失恋した相手であるかの「電車と靜物」に出る「お玉さん」に向けた偏執的ラブレター様のこの散文詩を、末期の韻文詩篇の中に一緒に入れるのを生理的に嫌ったとしか思われないのである。無論、詩集の編纂にそのようなことが許されるとは全く思わない。因みに言っておく――私はこの槐多のストーキングを異常と――見做さない人間――である――私の中には――槐多が――いる――のである。……
なお、「全集」では、各段落の行頭は一字下げになっているが、底本がご覧の通りで、言うまでもないことであるが、長くなった文が二行目に亙っても全く一行目と同位置から二行目以降も始まっている。
「スペイン風邪」一九一八年から翌一九一九年にかけて世界的に流行したインフルエンザのパンデミック。世界中で五億人が感染し、死者は五千万から一億人に達したと考えられている。参照したウィキの「スペインかぜ」によれば、第一波は一九一八年三月に『米国デトロイトやサウスカロライナ州付近などで最初の流行があり』 第一次世界大戦中であったために『米軍のヨーロッパ進軍と共に大西洋を渡り』、五~六月に『ヨーロッパで流行』、続く第二波は、一九一八年の秋に『ほぼ世界中で同時に起こり、病原性がさらに強まり、重症な合併症を起こし死者が急増』、その後の第三波は一九一九年春から秋にかけて、第二波と同じく世界的に流行したとあり、しかも日本ではこの第三波による被害が最も大きかったと記す(下線やぶちゃん)。「お玉さん」がどうなったか……後のこと、知りたや……
「いや、いや、是等の問ひを掛ける事は何たる愚な事でしやう」の「しやう」はママ。以下の「しやう」も同じなので略す。
「もしあなたが死んで居たら病氣であつたら、あの美しい唇が紫色にかはつて居たら。」「全集」では「もしあなたが死んで居たら病氣であつたら、あの美しい唇が紫色にかはつてゐたら。」である。私には編者の、「死んで居たら」は許せるが、「かはつて居たら」は許せない、という生理的感覚は全く理解出来ないと言っておく。
「いつでもあなたに會へると云ふ事は何の疑念もなく信じられるからです」の「疑念もなく」の「なく」は底本では「たく」である。誤植と断じて「なく」とした。「全集」も無論、「なく」である。
「どうしたのだろう妾は何をぼんやりして居るのだろう、どうしてこんな風になるんだろう」の三箇所の「だろう」はママ。
「元にかいる」はママ。「全集」は「元にかへる」に訂する。
「しかるにあなたのその瞬間に、私ははつきりとあなたの耳にささやいて居るのです、」行末の読点は「全集」では句点。この詩篇では「全集」は統一整序することなく、句読点を底本のように打っているように見えるのであるが、ここが違うのは不審である。
「私はこの思ひが單にあなたに達したと云ふ事だけでも信じなければならないのです」の「信じなければならない」は底本では「信じなければたらない」である。「たらない」誤植と断じて「ならない」とした。「全集」も無論、「ならない」である。
「affair」ちょっとした出来事や下らぬ事件とも訳し得るが、「戯談」(じやうだん)としての」と条件づけるのであるから、一時的で不純なの意味合いの極度に強いところの恋愛・浮気・情事の謂いであろう。
「戯口」私は「ざれぐち」と訓ずる。
「失戀はすでにその以前に定まつて居た事實なのです物、」はママ。「全集」は「失戀はすでにその以前に定まつて居た事實なのですもの。」となっている。句点に変化している点も注意。
「私はあなたから全然レヒユーズされて居る男なんです物、」はママ。「全集」は「私はあなたから全然レヒユーズされて居る男なんですもの、」となっている。こちらは同じく読点のままになっている点にも要注意。「レヒユーズ」“refuse”は断乎とした強い態度で拒絶するの意の他、限定的に、人の言い分を刎ねつける、女が男の求愛を拒むという意もある。
「意氣知のない奴め」はママ。「全集」は「意氣地のない奴め」に訂する。
「一すじ」はママ。
「垣間でも見やう」の「見やう」はママ。
「私はあなたの結婚の事をきいて一月もたゝない内に恐ろしい運命に立すくみました、私は肺炎に襲はれました」という叙述によって、槐多が「お玉さん」結婚の事実を耳にしたのは(結核性肺炎の発作に襲われたのは四月中旬)この大正七年の三月中下旬であったことが判る。
「まる九箇月の後やつとほゞ私は舊態にかへつたのです」この槐多の言う通りであるならば、槐多自身が身体の一時的な小康を認識し得たのは大正七年の十月半ば過ぎであったことが判る。これは前に引いた草野の年譜の『十月末頃、幾分健康を回復し、見舞に来た山本二郎に付添われ、鴨川発の汽船で帰京する』という記載と概ね一致する。
「私はいつまでもあなたを愛しなくてはなりません」はママ。不思議なことに、キレイ好きの「全集」もママである。
「私の闇はますます深いばかりです、」「全集」は「私の闇はますます深いばかりです。」と読点を句点に変えている。
「ああしかし何のためにこの闇がのろいえましやう」の「のろい」と「ましやう」はママ。「全集」は「ああしかし何のためにこの闇がのろひえませう」と訂する。
「私のねがう所は」はママ。
「この暗から光への消息が、」「全集」は「この私から光への消息が、」となっている。私にはこの「私」、どう考えてもこれ、「全集」の誤植としか思われないのだが?! 如何?!]