レオナルドに告ぐる辭 【★1913年パートへの差し込み追加分】
レオナルドに告ぐる辭
わがレオナルドよ。
われ君の生涯を思ふ時、常に強き革、我が身體を縛するなり。そは君は友なればなり。我も亦君と同じ道を歩むものにてあればなり。君が十九才の時までに君は畫家として著名なりき。強力と其の美とに著名なりき。しかして、我は今十九才なり。我は畫家としての自己の力量に愧じるところ多し。ああ、レオナルドよ、君は我に秀れたり。されど君はすでに、わが時代の礎石に過ぎざるなり。我は今多くの君に秀れたる考を有てることを君に告ぐるなり。美と力とに於て我君に劣る、されど我は信ず、我は君に劣らざるなり。唯われは今境遇の強いたる惡しき假面を冠れり。しかるに君はよき假面を冠りたり。其の差あるのみなり。
こゝにわれは君と同じく第十九の歳を出發せむとす。以後我は君の如く歩まむ。君の如く製作し、君の如く思考せむ、げに我は君を愛す、而して君が心事を知る。君が製作の多く完全に至らざりし所以をも知る。君が完成を告ぐる能はざりし所以のものは、しかも又我これを有せるなり。
あゝレオナルドよ、余は君の未完成なるが故に君を愛し君を崇拜するなり。君はいさゝかの彫刻といさゝかの繪畫とを殘せり、しかも君は如何に多くの事を成したるぞ。
君は總てを成したり。君が成したるは眞に成したるなり。其の故に今人は、君が少き藝術を享く、君が少なき藝術に驚嘆す。
而して君は微笑する。モナ・リザの如く微笑す。
ああ、彼の微笑は幾度かわが生命に喰ひ入りしぞ。彼の微笑に君の生あり。彼の微笑に人類の頂點あり、我も微笑せむ、我も微笑をもて、我生を微笑せむ。
レオナルドよ、我は君の如く生きむ。君の如く進まむ。
我は偉なる未完成の我を、君の如く微笑せむかな。
[やぶちゃん注:本篇は彌生書房版「増補版 村山槐多全集」では「感想」の部に入っており、実は私はこの「感想」に分類されてある六篇総てを遠い昔に電子化している。しかし、今回、これを読むと、これは明らかに散文詩である。そこで、ここに改めて全くゼロから「槐多の歌へる」を基に電子化し、ここに配することとした。その理由は第二段落目に『しかして、我は今十九才なり』と述べていることを根拠とする(大正三(一九一三)年で槐多は数え十九歳である)。本篇は「槐多の歌へる」には所収せず、本底本の続編で、翌大正一〇(一九二一)年に同じくアルスから刊行された山本路郎編「槐多の歌へる其後及び槐多の話」の「感想斷片」パートで初めて日の目を見たものである。これも国立国会図書館近代デジタルライブラリーの当該書の画像を底本として視認した。にしても、自らをレオナルド・ダ・ヴィンチに比肩させるとは、まず、驚くべき不遜のプライド、流石は槐多!
「強力」「きやうりよく(きょうりょく)」である。ダ・ヴィンチが力持ちだったという話は私は聴いたような聴かなかったようなではっきりしないが、ここは強力な驚くべき能力・才能の意であろう。
「愧じる」「強いたる」「少き」はママ。
「而して君は微笑する。モナ・リザの如く微笑す。」と次の「ああ、彼の微笑は……」の段落冒頭の一字空けがないのはママである。]
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