『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 尾藤ケ谷
●尾藤ケ谷
尾藤ケ谷は。管領屋敷(くわんれうやしき)の對地(むかひ)淨智寺東鄰の谷なり。里人いふ昔は尾藤左近將監景綱こゝに居住す。故に名づくと。今猶ほ其の宅地と稱する所あり。[やぶちゃん注:「新編鎌倉志卷之三」に以下のようにある。私の注も含めて引く。
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○尾藤谷 尾藤谷(びとうがやつ)は、管領屋敷の向ひ、淨智寺の東鄰の谷(やつ)也。里人の云く、昔し尾藤左近將監景綱此に居す。又圓覺寺額(がく)の添狀(そへじやう)に、延慶元年十一月七日、進上、尾藤左衞門尉殿、越後の守貞顯(さだあき)とあり。此尾藤歟。又佛日菴に、小田原よりの文書あり。鼻頭谷(びとうがやつ)と書けり。
「尾藤景綱」(?~文暦元(一二三四)年)は鎌倉初期の武士。藤原秀郷の末裔で、北条泰時に近侍した。彼は鎌倉幕府史上、初代の家令となったが、「東鑑」によれば、その時既に泰時の邸内に彼が住居を構えていた旨、記載がある。但し、泰時邸は当時の幕府正面、現在の宝戒寺のある位置であることが判明しているので、本文のこれがもし尾藤の居宅とするならば、彼が身内の事件に端を発して出家した嘉禄三(一二二七)年以降のことかとも思われる。しかし彼は病没する前日まで家令として幕政実務を取り仕切っていたことが分かっており、彼をこの同定候補とするのには疑問がある。
「延慶元年」は西暦一三〇九年。
「越後守貞顯」は幕府滅亡とともに自害した北条(金澤)貞顕(弘安元(一二七八)年~元弘三(一三三三)年)。鎌倉幕府第十五代執権。彼は嘉元二(一三〇四)年に越後守、正和二(一三一三)年に武蔵守に遷任されているから、この添状と合致する。当時、彼は幕府寄合衆・引付頭人であった。但し、こちらの「尾藤左衞門尉」は何者か不詳。識者の御教授を乞う。
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