『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 明月院
●明月院
明月院は。管領屋敷(くわんれいやしき)の北に在り。安房守上杉憲方の創立する所開山は密室守嚴(みつしつしゆげん)和尚なり。始は禪興寺の塔頭にして庵號を唱へしといふ。本尊は觀世音。腹内(ふくない)に小佛像數千を籠(こむ)るぞいふ、開山守嚴の像及ひ開基憲方の木像を安置す。瓶の井は院後に在り。鎌倉十井の一なり。其の後山を六國見と稱す。安房上總下總武藏相摸伊豆の六國を望見するを得るに因る
[やぶちゃん注:今や、知らぬ者とてない明月院であるが、あの盛況は戦後に紫陽花を植えてからのことで、「あじさい寺」という呼称も一九六〇年代後半頃からのものであろう。例えば、「鎌倉攬勝考卷之五」を見よう(私の注ごと引く)。
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明月院 禪興寺の東北にあり。古えは塔頭なれ、今は却つて禪興寺の方丈なりと唱ふ。建長寺領の内、三拾壹貫文の領を附せり。明月院領の事を、永祿二年、【小用原所領役帳】に、卅一貫九百七拾文、相州東部岩瀨の内今泉とあり。開山は密室守嚴和尚、大覺禪師の法孫なり。開基は上杉安房守憲方也。法名を明月院大樹道合と號す。應永元年十月廿四日卒、歳六十。本尊觀音腹中に、小佛像數千を納む。虛空藏と愛染の像といふ。其傳えを失ふ。開山の像を安ず。此寺地は、最明寺時賴が大廈の幽亭を構へし舊跡なり。北條氏滅亡し、此亭も荒廢せし跡へ、上杉憲方が當寺を造立せしものなりといふ。明月院の舊地は、憲方が塔窟の前なる畠地なり。
「永祿二年」西暦一五五九年。
「密室守嚴」(みっしつしゅごん ?~元中七/明徳元・康応二(一三九〇)年)は蘭渓道隆の五代目の法孫。
「應永元年」西暦一三九四年。
「大廈の幽亭」大きな構えの屋敷の隠居所。
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序でに上に掲げたのは同所に添えられた「明月院並禪興寺旧跡」である。図の右奥の高台に「明月院方丈」、その直ぐ左手に「客殿」、そこから下った位置に先に出た「禪興寺佛殿」と平の時頼塔」が、その左手奥のやぐらのところに次に出る「上杉憲方之塔」と記されていあるようである。右下の横向きの文字は、「山ノ内往還」か? また、左下の岩窟の前(雲上)には、「岩窟二三あり/其いにしへの/矢倉なるにや/古墳なるか/しれず」とある(二行目は自信がない)。このやぐらは私はよく知らない。配置から見ると現在は個人の邸宅敷地内にありそうな感じである。……それにしても今や、紫陽花の頃にはこの人気なき侘しい田園風景の場所に、絵図の右手前(ちょうど現在の横須賀線が小川に平行すると考えればよい)から、整理券を持ってゾロゾロと人が並んでいるという訳である。……
「瓶の井」「つるべ」とも「かめ」とも呼ぶ。『岩を掘り貫いて作ったとみられる。特に伝説はないものの、現在も明月院の庭水などに使用されているため、十井の中でも貴重な存在といえる』(昭和五一(一九七六)年東京堂出版刊「鎌倉事典」の記載)ものである。]
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