夢野久作川柳集Ⅲ
[やぶちゃん注:以下の川柳六句は西原和海編「夢野久作著作集 1」に載る「南五斗会例会――第二回」という標題で載る夢野久作の筆になると西原氏が推定する文章(同氏の解題によれば『九州日報』大正一四(一九二五)年十二月二十一日号に掲載されたもの)中に現われる夢野久作の柳号「三八」名義で載るものである。評も一種の自注と思われる。久作満三十六歳。]
心中
死に覺悟やつと二人の月を見る 三八
[やぶちゃん注:続く『評』に『喰はせ足らぬ。』とある。]
噂
繪日傘けふも噂の町を行き 三八
[やぶちゃん注:続く『評』に『キレイ。』とある。]
白粉
姑がジロジロと見る白さなり 三八
[やぶちゃん注:「ジロジロ」の後半は底本では踊り字「〱」。続く『評』に『ジロジロがいゝ。』(この「ジロジロ」の後半も踊り字「〱」)とある。]
火鉢
生返事(なまへんじ)吸殼を火にくべはじめ 三八
[やぶちゃん注:続く『評』に『ある図。』とある。]
火鉢
喰つて來たと火鉢の隅で一つうけ 三八
[やぶちゃん注:続く『評』に『生世話(きぜわ)ぶりがいゝ。』とある。「生世話」は生世話物(きぜわもの)の略。歌舞伎の世話物の中でも写実的傾向の著しい内容・演出によるものを指し、文化・文政期(一八〇四年~一八三〇年)以降の江戸歌舞伎で発達した。ウィキの「生世話物」によれば、演出としては『主として舞台が商家、町人や農民の住居、遊郭、町中や田舎の一角などの場合に採用される。台詞回しや鳴物は従来のままだが、衣装、小道具、背景などはなるべく本物に近い物を使うことでリアリテイを強調する。また、当世風の言葉廻しや当時流行していた音楽、小物、風習などを使うこともあり、今日からでは貴重な風俗資料でもある』とあり、十八世紀末に初代並木五瓶(ごへい)が江戸に下って「五大力恋緘(ごさいりきこいのふうじめ)」や「富岡恋山開(とみがおかこいのやまびらき)」などの『世話物で上方の写実的作風を移植』、同時期の寛政四(一七九二)年十一月には、『四代目岩井半四郎が』「大船盛蝦顔見世(おおふなもりえびのかおみせ)」で、『最下層の売春婦である切見世女郎の三日月おせんを演じ、江戸の劇壇に生世話物勃興の動きが』生まれ、続く十九世紀初めの『化政期に、四代目鶴屋南北が登場する。南北は、一つの狂言で時代物と世話物の世界をないまぜにする作風で、時代物世話物に長じた七代目市川團十郎、実悪の五代目松本幸四郎、怪談劇に優れた三代目尾上菊五郎、美貌の立女形五代目岩井半四郎等名優に恵まれたこともあって、世話物の場面で当時の下層社会の生態をリアルに描く趣向をとった新しい形態の劇が生まれ、ここに生世話物のジャンルが確立された。南北の生世話物の代表作としては、「東海道四谷怪談」「絵本合法衢」「於染久松色読販」「謎帯一寸徳兵衛」「盟三五大切」「桜姫東文章」「心帯解色絲」などがあり、そのいくつかは今日の人気狂言でもある』。『幕末期には生世話物は三代目瀬川如皐などを経て、河竹黙阿弥によって洗練される。黙阿弥は写実を徹底させ、名優四代目市川小團次、三代目澤村田之助らの活躍で』「都鳥廓白浪(みやこどりながれのしらなみ)」「三人吉三廓初買(さんにんきちさくるわのはつがい)」「鼠小紋東君新形(ねずみこもんはるのしんがた)」「勧善懲悪覗機関(かんぜんちょうあくのぞきからくり)」「処女翫浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)」といった『市井の人々の哀歓を綴った名作が作られた。彼の生世話物には南北に見られる猥雑さは影をひそめ、抒情性や様式美に重点が置かれているのが特徴で、明治期になるとそれはより顕著になる。
そんなときに黙阿弥と提携した五代目尾上菊五郎は若年期に小團次の薫陶を受けており、後継者として生世話物の伝統を守り続けた。旧作の上演を行う一方、新作でも、散切物で新時代の様を舞台に表そうとしたり、「神明恵和合取組」では、住居の再現に町火消のめ組関係者から子細な聞き取りを行い、「盲長屋梅加賀鳶」の按摩道玄の衣装を町の古着屋から買い求めるなど、リアリズムを追及する姿勢は最後まで崩さなかった』とある。]
詩
詩が好きな彼女は遂に詩を孕み 三八
[やぶちゃん注:続く『評』に『末句おもしろし。』とある。]