氷の涯 夢野久作 (20) ……あと二回で……ステキな……大団円!……
ニーナはしかし答へなかつた。頸の雪雫(ゆきしづく)を拂ひ落し拂ひ落しペーチカに薪を二三本投げ込んで椅子を引寄せながら、燃え上る焰をヂーツと見詰めてゐたが、やがて温まつたと見えて血色を恢復すると、右のポケツトから大好物の巨大(おほき)な日本梨を出して、皮のまゝカブリ付いた。その片手に左のカクシからレターペーパに包んだ葉卷を三本引つぱり出して、僕の枕元に投付けてくれたが、それは漂浪中(へうらうちう)に欲しい欲しいと云つてゐた上等の挨及製(エヂプトせい)だつたので、すぐに一本に火を點けて吸ひ始めた。
その中(うち)にニーナは突然に僕の顏を振り返つてニツコリ笑つた。
「ねえアンタ。妾(わたし)たちモウ駄目なのよ」
トテモいい氣持に陶醉しかけて居た僕は、しかし平氣で煙(けむり)を吹き上げた。
「フーン、どうして駄目なんだい」
ニーナは平生(いつも)の通り、梨の汁を飮み込み飮み込み話し出した。平氣な、茶目氣(ちやめけ)を帶びた口調で……。
「此方(こつち)の方へもスツカリ手がまはつてんのよ」
と云ふのであつた……。
ニーナは今まで默つてゐたけれども、浦鹽に來るとすぐから哈爾賓の樣子に氣を付けて、それとなく探りまはして居たものであつたが、けふが今日(けふ)まで、それこそ何の情報も聞かなかつた。日本軍の西比利亞撤兵(シベリアてつぺい)が果して出來るかどうかと云つた樣な議論は、何處に行つても人種の區別なしに鬪はされて居たが、しかしカンジンの十五萬圓事件は勿論のこと、オスロフの銃殺事件さへも傳はつてゐる模樣が無かつたので、トテモ氣味が惡くて仕樣が無かつた。絶對祕密にされて居れば居るほど探索の手が嚴しいのぢや無いかと思つて出來る限りお化粧を濃くしてゐた。
ところが今夜になつて思ひがけない不意打(ふいうち)を喰(く)つてしまつた。
スヱツランスカヤでも一流のレストラン・ルスキーの地下室で踊つてゐる最中であつた。ピアノの前の卓子(テーブル)でウイスキーを飮んでゐる色の黑い日本紳士が二人、ニーナの顏を見い見い何かしら話し合つて居る樣子が妙に氣になつたから、いつもの通り背向(うしろむ)きになつて踊りながら近づいてみた。すると日本語だつたから、よくはわからなかつたが「イヤ違ふ」とか「イヤ、さうらしい」とか云つて爭ひながら笑ひ合つて居るのであつた。それから少しばかり聲を潜めながら「此事件は可なりトンチンカンだ」とか「オスロフと十五萬圓は別々の問題らしい」とか話し合つてゐる聲が、彈み切つた音樂の切れ目切れ目に聞えたが、あんまり長いこと傍(そば)にゐると疑はれるかも知れ無いと思つて、又も踊りながら遠ざかつて行(ゆ)くと、その中の一人がニーナの足の下に十留(ルーブル)の金貨をチリヽンと投げた。
[やぶちゃん注:●「十留(ルーブル)」前に出した一九二〇年代(本作の作品内時間一九二〇年)の一米ドルは当時の日本円で二円で、凡そ現在の六百円相当が参考になるが、実はこの一九二〇年という年が曲者で、ロシアは内戦によってこの時、六百倍という恐るべきインフレに陥ってルーブルの価値が急落、一米ドルに対する換算レートが一九一四年には二ルーブルであったのに対して、この一九二〇年は何と、一二〇〇ルーブルになっていたという。とすると急落前なら十ルーブルは十円、現在の三千円だったものが、この頃には一円弱で三百円にもならない状態であった。但し、これは為替レート上のものであるから、国内の価値としては前者換算で考えて問題なく、確かにこの場面でのダンサーへの投げ銭にしては「氣前」がいい(次段)ということになるのであろう。]
ニーナはコンナ氣前のいゝお客に一度もぶつかつた事がなかつたので、少々氣味が惡かつた。でも挨拶をしない譯には行(ゆ)かなかつたから一と踊り濟ますと思ひ切つて、勇敢に笑ひかけながら其の卓子(テーブル)に近づいて行くと、その中の一人がダシヌケに手を伸ばしてニーナのベレー帽をスポリと引き拔いた。
「アハハハハ。見たまへ君。斷髮だらう。ソバカスは解からないが、年頃もちやうど似通(にかよ)つてゐる。……ネエ。さうぢや無いかナハヤさん。君は一體いくつなんだい」
と其の紳士が上手な露西亞語で尋ねた時には、流石のニーナも身體中の血が凍つたかと思つた。お化粧をしてゐなかつたら直ぐにも顏色を看破(みやぶ)られたであらう。
ところが、よく氣を付けてみると其の紳士たちは二人とも可なり醉つてゐるらしかつた。だから冗談半分のつもりで其樣(そん)な事をしたものであらう。相手の年老(としと)つた方の紳士はトロンとした瞳をニーナの眞正面に据ゑながらゲラゲラと笑つた。手の甲で鼻の下をコスリあげコスリあげ覺束(おぼつか)ない露西亞語で怒鳴つた。
「……オイ。娘つ子、貴樣の名前はニーナつて云ふんだらう。……隱すと承知せんぞ」
モウ度胸のきまつてゐたニーナは莞爾(につこり)とうなづいて見せた。ハツキリした日本語で答へて遣つた。
「えゝ。さうですよ。日本語でニーナ。露西亞語でオイシイ、ウヰスキー……」
[やぶちゃん注:●おちゃらけはそれぐらいにして、因みに「ニーナ」(Нича)について調べて見ると、sonohara氏のサイト「さらに怪しい人名辞典」のこちらに、“Антонина”或いは“Нинель”という女性名のロシア語略称形とし、前者「アントニーナ」の原形“Antonia
Ridge”「Antonia Ridge」という赤いバラの品種があること、また、後者「ニネーリ」は何と! レーニン(Lenin)のアナグラムで造られた名ともある! 別にまた“Нича”の略称形として“Ника”を挙げ、そこでは『ロシア語では(Nika)の綴りがギリシャ神話の女神「ニケ」を指す』ともある。私の好きなサモトラケのニケ、手が翼となった勝利の女神だ!……。]
二人の日本紳士は卓子(テーブル)をたゝいて哄笑した。それからニーナの兩手を兩方から引つぱつてホールの眞中に出ると、店附(みせつ)きの音樂師に錢(ぜに)を投げてデタラメなダンスを始めた。その中でも年老つた方の紳士がニーナのベレー帽を冠(かぶ)つて踊り出したので滿場の大喝采を博したが、その踊りにくかつたこと……今にも手の震へを感付かれて、外へ引つぱり出されるかと思ひ思ひ、無理に笑つて戲弄(ふざ)け合つてゐた。その間の情なかつたこと……。
そのうちに二人はニーナを引つぱつて元の席へ戻ると、強いジン酒(しゆ)を三杯注文した。そこでお盆が來るや否や、ボーイがまだ下へ置かないうちに素早く手を伸ばしたニーナは、三杯とも一息にグイグイグイと飮み干すと、アツと驚いてゐる人々を尻目にかけながら、風車(かざぐるま)のやうにギリギリ舞ひをして地下室を飛び出した。さうしてその足ですぐにルスキーの裏手へ廻つて、給仕頭のムカツツイといふ赤ツ鼻(ぱな)の禿頭(はげあたま)に顏を貸して貰つて、タツタ今貰つた金貨を摑ませて遣つた。
[やぶちゃん注:●「ルスキーの裏手へ廻つて」底本では「ルスキー」は「スルキー」。明白な誤植であるので「全集」に則り、訂した。]
ところが此のムカツツイと云ふのが又妙な男で、まだ何も尋ねないうちに金貨を摑んだニーナの手を押し戻すと脂切(あぶらぎ)つた眼をギヨロギヨロさせながら、毛ムクジヤラの指を一本ピツタリと唇に當てた。
「……あの二人の日本人の事が聞きてえつて云ふんだらう。……ナ……さうだらう……氣を付けなよ。あれあ此の間からヤツト開通した哈爾賓直通の列車に乘つて來たばかしの怖いヲヂサンたちだよ。若い方が通譯で、年老つた方が鑛山技師(くわうざんぎし)つて云ふ觸れ込みだがね。何でも前月(あとげつ)の末(すゑ)に哈爾賓で、赤い連中を根こそぎ退治して來たつてんで、チヨツトばかりメートルを揚(あ)げて御座るんださうだ。……ところでナハヤさん……そんな事あ何樣(どう)でもいゝが此頃、浦鹽(こつち)の方へドエライお布告(ふれ)が廻つて居るのを知つてるかい……ウン。知らねえだらう。云つて聞かせようか。……何でも半年ばかり前の事だつて云ふがね。哈爾賓で經理部の大將と、大きな料理屋の女將と、その情夫(いろをとこ)だつて云ふ通譯を殺して、公金を搔つ攫(さら)つて赤軍に逃げ込んだつて云ふモノスゴイ一等卒が居るんだ。しかも其の通譯つて男が、無罪放免になつて、憲兵隊本部の入口を二三歩あるき出すと、その瞬間に、何處からか飛んで來た小銃彈で殺られてしまつた。すると又それから間もなく、經理部の大將の死骸を詰めたトランクが、松花江(しやうくわかう)のズツト下流の川中島(かはなかじま)に流れ着いてゐるのを、支那人の船頭が發見(めつけ)て報告したといふので大騷ぎになつたさうだがね。理窟はよくわから無いけれども多分その公金をチヨロマカした兵隊が、自分の祕密を知つて居る二人を殺したのだらうつて云ふ見込みなんだ……しかもその兵隊は、ニーナつて云ふ女と一緒にモータボートで松花江(スンガリー)を下つたつて事が、色んな方面からわかつて居るんだ。序(ついで)に赤軍に逃げ込んだらしい……つて云ふ嫌疑もかゝつて居るさうだがね。もしかすると浦鹽(こつち)の方角にズラカツて居るかも知れねえつてんで嚴しいお布告(ふれ)が、ツイ二三日前に日本軍のタムロへ舞ひ込んだつて事が、此の俺樣の地獄耳にチヨツピリ引つかゝつて居るんだ。そんな祿でもねえ野郎にクツ付いてゐるニーナつて娘つ子は可哀想なもんだつて云つてコチトラ仲間でタツタ今評判して居た處なんだ。……ナニ、俺ケエ。おらあ此家(こゝ)の給仕頭(きふじがしら)よ。白でも赤でも何でもねえ。無色透明、浦鹽見通(うらじほみとほ)しの千里眼樣(せんりがんさま)だ。さう云つたらわかるだらう……ハツハツ。さあさあ解つたら此の水を飮んで今夜は早く家(うち)に歸りな。助かり度(た)けあ俺んトコへ逃げて來る事だ。片付けるものを片付けてナ……いゝかい。人間は何でも思ひ切りが大切だからな。氷(こほり)の解けるまでヂツトして居れあ大概(てえげえ)、捕まるにきまつてるからな。詰まらねえ義理を立てゝそんな男に……ナニイ……そんな用事で來たんぢやあねえ?……ふうん。そんなら何の用事で俺を呼んだんだ。ナニイ。あの帽子……彼(あ)の靑いベレー帽子(ばうし)を俺に取返して呉れつて云ふのか。アウン。大事な守護符(おまもり)でも這入つてんのか。ナニイ。あの紳士たちがドウするか試して見たい……チツプを附けて温柔(をとな)しく返して呉れるかどうか、ちよいとヒヤカシてみたい……? ブルルル。ト飛んでもねえ……圖々しい阿魔(あま)だな手前(てめえ)は……ソンナ事をして本物のニーナと間違へられたらドウする。停車場(ていしやば)の裏(うら)が怖くねえのか。さもなくとも俺が此の指を一本、斯樣(かう)曲げて店のピアノ彈きに見せたら、お前のお乳(ちゝ)が蜂の巣になるのを知らねえか。馬鹿野郎……」
[やぶちゃん注:●「前月(あとげつ)」先月。前の月。過ぎ去った一ヶ月は現在の後(あと)、以前にあるという意から生じた近世語と思われる。 ●「タムロ」は恐らくはロシア語ではなく日本語の「屯(たむろ)」で、日本軍のウラジオストクの駐屯地のことであろう。「たむろっている」とよく我々が口にする「たむろ」は「党」とも書き、もともと上代語で集団・兵隊の意である。]
ニーナはさう云ふムカツツイに兩手で赤ンベエをして見せながら、横つ飛びに逃げて來たが、生れてコンナ怖ひ思ひをした事は無かつた。お酒の醉ひも何も一ペンに醒めてしまつた。
「だからモウ駄目よ。あの赤つ鼻の禿頭(はげあたま)はボルセビイキの密偵の癖に妾(わたし)に惚れてゐるんだよ。だから云ふ事を聞かないとドンナ事をするか知れたもんぢやない。あの二人の日本紳士だつて醉ひが醒めて氣が付いたらキツト血眼(ちまなこ)になるに決つてゐるわよ」
[やぶちゃん注:●「ボルセビイキ」レーニンが率いた左派の一派ボリシェヴィキ(большевики ロシア語で「多数派」の意)。ロシア社会民主労働党左派から分裂形成された。三月革命後の臨時政府を支持せず、十一月革命を起こしてプロレタリア独裁を樹立。一九一八年に「ロシア共産党」と改称しているが、その後もこの語は彼ら左翼思想集団の代名詞として使用され続けた。ボリシェビキ。]
といふうちに彼女は梨の大きいのに降參したらしく、喰(く)ひ殘しの半分をナイフで荒つぽく剝き初めた。
「フーン。それぢや十五萬圓はやつぱり銀月の中の何處かに隱して在つたんだな」
「さうよ。それが燒けちやつた事が判つたもんだから赤の連中が、ムシヤクシヤ腹(ばら)で十梨を殺したのよ」
「惜しい事をしたな。無罪の證據になるんだつたのに…」
「證據なんかなくたつてアンタは無罪ぢやないの……」
「お前に對してだけはね……」
「妾(わたし)は有罪だつて何だつて構やしないわ」
「ハツハツハツ……しかし驚いたなあ。星黑(ほしぐろ)の死骸まで俺のせゐになつちやふなんて……」
「馬鹿にしてんのね。そんな嫌疑を一ペンに引つくり返す證據が殘つて居ると面白いわね」
「ウン。タツタ一つ素敵なのが殘つて居るんだ。今しがたお前の話を聞いてる中(うち)に思ひ出したんだがね」
「……まあ……ドンナ證據……」