雜念 村山槐多
雜念
光り泡だち樣々の思ひ心に滿つ
紫の夜の更けゆくに連れて
夜光虫の如くたいまつの如く
消えては現はるゝ樣々の思ひ
ねむりの力も及びがたきか
わが心は眩しさとうるさくとに惱む
されども樣々に無數に消えては現はれ
寶玉のあられの如く思ひぞふる
光り泡だちてあはれ樣々の思ひは
うるさく眩しくある時は美しく強く
酒の滴りか、雨か、あられかの如く
紫色の深夜をこめて絶えずふりつづく
ねむりよ深く靜なるねむりよ
とくかゝる思ひの群を青き暗もてかきけし
われをすくへやこのいらだたしさより
この果つる時なき夜すがらの幽靈より、
×
人をいざなひて惡所に落し
物をとりぬいつはりぬ
罪を重ね重ねぬ
神はいづこよりわれを見給ふや
その鋭どき神の御瞳われに見ゆ、
はるかに遠くに
神の凝視に守られつゝ
恐らく一生の問
われは罪を重ねゆくならん
あはれなるわれかな、
×
あしたに神を思ひ
夕べに罪を犯しぬ
美しき空と
醜くき嵐と
絶えず戰ふわが身の上に
さびしさ極まりて
しづかに居がたくなりつ
さてわれは身をうごかし
美しき業か
惡しき業をなすなり
この日頃は
惡しき業のみして
わがさびしさは日々に深し
さりとて
善き業のみに走りて
得るさびしさを思へば
惡しき業もよけれ
性惡なるわれよ
×
天然痘よ
われに來りうつれ
われは汝を望む
汝のしうねくわれを捕へて
死か
しからずんば
恐ろしき假面をわれに着せん事を
×
惡病の都に
慄へつゝ生き居る事の
不思議にも面白し
すべては運命の眼のうちにあり。
×
善人の友よ
君にわれはジン酒の如く強きはぢを感ず
餘りに善き君の故に
われを許せ
君をいつはり君をおとし入れ君を賣りて
尚君に熱き友情を以つてむくいられつゝあるわれを許せ
われは君の前に
神の前にある如く伏し拜がむ
×
友よ
わが風貌とわが業とは醜し
されどもわが心は
白き鳩の如く淸く
君にくちつけつゝあり
×
すこし暗い樣だね
眞晝間ではないの
それだのにまつたく暗いね
このざまはなんだ
何んでもかでもがいぢけてふさいで
しなびた花の樣にうつむいて居るね
女の新築の家も原も
空の光をもつと強めるんだね
日はどうなつてるのだい
日がかすんでる
空を明るくするんだ
さあね、うでまくりをするんだよ
ともつた電球を千も持つて來て
どしどし空へ投げてお呉れ
光彈を打つてお呉れ
銀の花火を上げてお呉れ
ぼんぷで水をふき掛けてお呉れ
誰か一人天へ飛んで行つて
雲にピストルを打つんだ
追つ拂ふんだ
硝子をまきちらせ
太陽に酒を呑ませろ
すこし暗い
やりきれない
空のひかりをどうにかしないと
やりきれない
やりきれない、
[やぶちゃん注:「鋭どき」「醜くき」「しうねく」「拜がむ」はママ。
「天然痘」直近の大流行は明治の三度目の明治二十九~三十年(一八九六年~一八九七年)で、死者は実に死者一万六千人に達した。記憶にはないものの、槐多の生まれはまさにこの最中(さなか)、明治二九(一八九六)年九月十五日(横浜市神奈川町)月である。この翌年になるが、大正八(一九一九)年で、大正時代最高死者数九百三十八人を出しているから、この槐多の謂いは決していい加減なものではないことがお分かり戴けよう。以上は、エドワード・ジェンナーの牛痘種痘法成功よりも六年も前に既に種痘による予防接種を行っていた本当の種痘の創始者(彼のそれは牛痘ではなく天然痘患者から採取した膿(痘痂)を使った人痘法)である秋月藩医緒方春朔の顕彰サイトの「天然痘関係歴史略年表」に拠った。但し、このある意味で余裕の疾患願望は寧ろ、この詩が結核性急性肺炎の発作に襲われるよりも前、直前であったことを逆に示唆するように思われる。宿痾結核に冒されていることが判っていたのなら、「天然痘よ/われに來りうつれ/われは汝を望む/汝のしうねくわれを捕へて/死か/しからずんば/恐ろしき假面をわれに着せん事を」とは逆立ちしても詠めないであろうからである。結核がまさに彼が望む通り、槐多に「來り」「うつ」っていて「しうねく」槐多を「捕へて」「死」を齎すことを予感し得たに違いないから、である。]