鏡に 村山槐多
鏡に
「鏡を見ろ鏡を、泣くな、しつかりと見入るんだぜ
お前の顏がお前を見て居るぜ
その顏は猿の死顏だ
人間の顏ではない」
「あれは猿さ、俺ではないのだ、だが俺も同然だ
俺が旨く手なづけた可愛い猿さ
俺はあの猿を分捕る爲にはずい分苦しんだ
末やつと手に入れた實に可愛いゝ猿なのだ」
「お前には可愛いいかもしれぬが
俺にはずい分と憎らしいぜ
あの眼玉はあの口はあの鼻は俺を戰慄させる
何と云ふ醜惡であらう
「はつは俺を貴樣は何だと思ふのだ
つむじまがり、天のじやくと云ふのが俺の事だ
俺はお前が戰慄する程な醜惡に
戰慄する程な美を感じる人樣なのだ」
「負をしみを言ふな どう言つて見た處で
お前は猿だ はつは、お前は猿だ猿だ」
[やぶちゃん注:二箇所の「ずい分」はママ。「全集」では二箇所とも「ずゐ分」とする。
第二連の二つ目の直接話法を示す鍵括弧は最後の閉じるがない。「全集」では第二連目の最終行「何と云ふ醜惡であらう」で、
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何と云ふ醜惡であらう」
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と閉じている。他の部分がすべて会話によってのみ構成されている詩篇の特徴から考えてもそうあるのが自然ではあり、鍵括弧を槐多が打ち損なったか、誤植の可能性が非常に高いとは思われる。ここはしかし、敢えて底本に従っておいた。因みに思うに、この第二連目は全体の詩篇構造としては、以下のように二つの連に分けた方がよいようにも思われなくもない(「全集」に従い、脱落している鍵括弧を挿入した)。
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「あれは猿さ、俺ではないのだ、だが俺も同然だ
俺が旨く手なづけた可愛い猿さ
俺はあの猿を分捕る爲にはずい分苦しんだ
末やつと手に入れた實に可愛いゝ猿なのだ」
「お前には可愛いいかもしれぬが
俺にはずゐ分と憎らしいぜ
あの眼玉はあの口はあの鼻は俺を戰慄させる
何と云ふ醜惡であらう」
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但し、二者(というよりも一人の槐多の中の二人の槐多)の言い掛け合いとして、本第二連の拮抗を効果的にぶつけ合うには寧ろ、本篇のように繋げた方が効果的とも言える。]