『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 毛利藏人大夫季光墓
●毛利藏人大夫季光墓
五輪塔なり。面(おもて)に藏人從五位下大江季光朝臣之墓、寳治元年歳次丁未、六月五日と記す。文政六年。毛利家より建(たつ)る所なり。昔此地に季光か室家尼となりて。爰に草菴を結ひ居住せしと云傳ふ。此(この)國緣(こくゑん)を以て建しなるべし。
[やぶちゃん注:大江広元四男毛利季光の墓である。これは珍しく極めて正しい位置(当時は窟堂の背後の山の頂にあった)に記されている、この時制にマッチしたもので、トンデモ記事の多いガイドブックである本書としては稀有のケース。たまには『風俗画報』もやって呉れるのである。但し、現在はこの墓はここには――ない――のである.だから,よくやった! と言いたいのである。だから貴重な記載なのである。この墓はこの後の大正一〇(一九二一)年に伝頼朝の墓の東の父広元の墓の側に移築されたからである(移築年は岡戸事務所の「鎌倉手帳(寺社散策)」の「大江広元・毛利季光・島津忠久の墓」に拠った)。既に述べたが、毛利季光(建仁二(一二〇二)年~宝治(一二四七)年は宝治合戦で北条方に就こうとしたが、三浦義村の娘であった妻(まさにここに出る尼である)の批難により三浦方に組し、自刃した悲劇の人物である。この墓は「鎌倉攬勝考卷之九」に以下のようにある(私の注も引いておく。ここでは墓(供養塔)を設けたのは別人でずっと後の永享年間(一四二九年~一四四一年)ことであることとあって、この方が信頼出来る)。
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大江季光入道西阿墓石 鶯谷尼菴の庭に在りしといふ。是は雪の下淨國院住僧元運といふもの、永享中に造立せし由。此僧侶は、大江氏の出にて、大江時廣の末孫なるが、同族の因たるをもて、其追福の爲に造立せし由。今は其塔も、剝落頽破して其形も全からず。大半土中へ埋しといふ。
[やぶちゃん語注:「雪の下淨國院」は「新編鎌倉志 卷之一」の鶴岡八幡宮の塔頭十二院の筆頭に掲げられている、以下に引用しておく。
淨國院 以下の十二箇院は、當社の供僧也。鶴が岡の西の方に居す。淨國院より次第の如く、東顏(ひがしがは)より西顏まで、寺町(てらまち)をなす。建久二年に、賴朝卿二十五の菩薩に形(かた)どり、院宣を奏し請て、供僧二十五坊を建立せらる。其の後應永二十二年二月廿五日、院宣に依て、坊號を改め院號とす。源の成氏の代まで、廿五院有しと見へたり。【成氏の年中行事】に載せたり。永正の比(ころ)より、漸漸(ぜんぜん)に衰へて、七院のみありしを、東照大神君、文祿二年に、十二院を再興し給ふと也。淨國院の開基は、【社務職次第】に云、初佛乘坊・忠尊、號大夫律師、山城人也、法性寺禪定殿下忠通猶子也。(初めは佛乘坊・忠尊、大夫律師と號す。山城の人なり。法性寺禪定殿下忠通の猶子なり。)
「大江時廣」は広元の子。三代将軍実朝近習。京都守護であった兄親広が後鳥羽方に就いて失脚したため、嫡男として大江家を嗣いだ。因みに彼以降は長井(若しくは永井)氏を名乗っており、この僧も俗名は長井(永井)姓であったと考えられる。]
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