『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 志一稻荷社
●志一稻荷社
志一稻荷は僧志一の觀請なり、此僧は筑紫の人にて訴訟の事ありて鎌倉に來り。既に訟も達しけるに。文狀(もんじやう)本國に忘置り。時に平生(へいぜい)此僧に仕へし狐。一夜の中に本國に往來して。彼狀を取來て志一に授け其儘死せり。依て稻荷に祀りしと鎌倉志に見えたり。志一鎌倉に來り。左道を以て人を蠱惑(こわく)し。且康安安元年上洛せし事太平記に記せり
[やぶちゃん注:で「新編鎌倉志」のプロトタイプ「鎌倉日記(德川光圀歴覽記)」から、この現在の鶴岡八幡宮から道を隔てた西北の斜面を登ったところにある志一稲荷と同じい「志一上人ノ石塔〔附、稻荷社〕」の本文と私の注を引く(以上はサイト一括版。同日記の私のブログ版電子テクストの「志一上人の石塔」はこちら)。
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志一上人ノ石塔〔附、稻荷社〕
右ノ石塔若宮ヨリ西脇ノ町屋ノ後ロノ山上ニアリ。土俗ノ云ルハ、志一ハ筑紫ノ人也。訴訟有テ下ラレ、スデニ訴訟モ達シケルニ、文状ヲ古里ニ忘置テ如何セント思ハレシ時、常々ミヤヅカヒセシ狐アリシガ、一夜ノ内ニ故郷ニ往キ、彼文状ヲクハヘテ曉ニ歸り、志一ニタテマツリ、其マヽ息絶テ死ケリ。志一訴訟叶ヒシカバ、則彼狐ヲ稻荷ニ祭リ、社ヲ立ツ。坂ノ上ノ脇ニ小キ社有。是其小社也。志一ハ左馬頭基氏ノ代ニ、上杉崇敬ニヨリ鎌倉へ下ラレケルト無極抄ニ見へタリ。太平記ニ仁和寺志一坊トアリ。又志一細川相摸守淸氏ニタノマレ、將軍ヲ咒咀シケルトアリ。此僧ノ事歟、未審(未だ審らかならず)。又此所ヲ鶯谷トモ云トナン。
●「無極抄」は近世初期の成立になる「太平記評判私要理尽無極抄」という「太平記」の注釈書である。
●「細川相摸守淸氏」細川清氏(?~正平一七/康安二(一三六二)年)は室町幕府第二代代将軍足利義詮の執事。官位は左近将監、伊予守、相模守。参照したウィキの「細川清氏」によれば、『正平九年・文和三年(一三五四年)九月には若狭守護、評定衆、引付頭人に加え、相模守に補任される。翌正平一〇年/文和四年(一三五五年)の直冬勢との京都攻防戦では東寺の敵本拠を破る活躍をした。正平一三年/延文三年(一三五八年)に尊氏が死去して仁木頼章が執事(後の管領)を退くと、二代将軍足利義詮の最初の執事に任ぜられた』。『清氏は寺社勢力や公家の反対を押し切り分国の若狭において半済を強行するなど強引な行動があり、幕府内には前執事頼章の弟仁木義長や斯波高経らの政敵も多かった。正平一五年/延文五年(一三六〇年)五月、南朝に対する幕府の大攻勢の一環で清氏は河内赤坂城を陥れるなど活躍した。この最中に畠山国清ら諸将と反目した仁木義長が分国伊勢に逃れ追討を受けて南朝に降ると、清氏は幕政の実権を握ったが、将軍義詮の意に逆らうことも多かったという』。『同年(康安元年、三月に改元)九月、将軍義詮が後光厳天皇に清氏追討を仰ぐと、清氏は弟頼和・信氏らと共に分国の若狭へ落ち延びる。これについて、「太平記」は清氏失脚の首謀者は佐々木道誉であり、清氏にも野心があったと記し、今川貞世(了俊)の「難太平記」では、清氏は無実で道誉らに陥れられたと推測している。清氏は無実を訴えるものの、十月には斯波高経の軍に敗れ、比叡山を経て摂津天王寺に至り南朝に降った。十二月には楠木正儀・石塔頼房らと共に京都を奪取するが、すぐに幕府に奪還された』。『正平十七年/康安二年(一三六二年)、清氏は細川氏の地盤である阿波へ逃れ、さらに讃岐へ移った。清氏追討を命じられた従弟の阿波守護細川頼之に対しては、小豆島の佐々木信胤や塩飽諸島の水軍などを味方に付けて海上封鎖を行い、白峰城(高屋城とも、現香川県綾歌郡宇多津町、坂出市)に拠って宇多津の頼之勢と戦った。「太平記」によれば、清氏は頼之の陽動作戦に乗せられて兵を分断され、単騎で戦って討死したとされる』とある(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更した)。但し、「新編鎌倉志卷之四」には、
〇志一上人石塔 志一上人の石塔は、鶴が岡の西、町屋の後ろ、鶯谷(うぐひすがやつ)と云ふ所の山の上にあり。里人云く、志一は、筑紫の人也。訟へありて鎌倉に來れり。已に訟へも達しけるに、文狀を本國に忘れ置きて、如何せんと思はれし時、平生、志一につかへし狐ありしが、一夜の中に本國に往き、明くる曉、彼の文狀をくわへて歸り、志一に奉り、其まゝ息絶へて死しけり。志一、訟へかなひしかば、則ち彼の狐を稻荷の神と祭り祠(し)を立つ。坂の上の小祠、是れ也。志一は、管領(くわんれい)源の基氏の他に、上杉家、崇敬により、鎌倉に下られけるとなん。【太平記】に、志一上人鎌倉より上りて、佐々木佐渡の判官入道道譽(だうよ)の許へおはしたり。細川相模守淸氏(きようぢ)にたのまれ、將軍を咒詛(しゆそ)しけるとあり。
と記す。「太平記」巻三十六「淸氏叛逆の事」によれば、志一は佐々木道誉のもとにあって、細川清氏に頼まれて荼枳尼天の外法(ウィキの「荼枳尼天」に『狐は古来より、古墳や塚に巣穴を作り、時には屍体を食うことが知られていた。また人の死など未来を知り、これを告げると思われていた。あるいは狐媚譚などでは、人の精気を奪う動物として描かれることも多かった。荼枳尼天はこの狐との結びつきにより、日本では神道の稲荷と習合するきっかけとなったとされている』とあり、志一と稲荷のラインが美事に繋がる)を以って将軍を呪詛したことが記されている。
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序でに、同じく私の電子テクスト「鎌倉攬勝考卷之九」の同じく志一稲荷のことを指している「志一上人墓碑」も原文と私の注(ダブっておらず補填的)を引き、対照参照に供しておく。
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志一上人墓碑 馬場小路の町屋の後なる西の方にあり。爰を鷺が谷といふ。此の志一は仁和寺の僧にて、外法成就の志一上人と、【太平記】にも載たり。もと筑紫の人なるが、詔ありて鎌倉へ來れりといふ。貞治の頃にやありけん、其の秋、京都へ上りし時、佐々木道譽が家へ參り、さまざま物語りのうへ、細川相模守殿より、所願候間、速かに願成就ある樣に祈りてたべとて、願書一通を封じ、供具の料とて一萬匹副へて贈られしと、何心なく語りければ、淸氏何事の所願に候哉(や)、其の願書披見せんことを、懇切に再三上人をすかしければ、無是非(ぜひなく)願書を取り寄せ、道譽に見せければ、道譽、大いに悦び、伊勢の入道が宅へ行き、細川淸氏、陰謀の証據發覺せしことを讒訴せしより、淸氏は將軍の爲に終ひに討たれ、家を失ひけり。其の發(おこ)りは、志一が愚直なるより、天下の大亂をおこし、死傷するもの多し。依つて上人も京に住し得ず、又鎌倉へ歸り、寂せし年月しれず。又一説に鎌倉へ下向の時、文書を故郷に忘れ、如何せんとせしに、志一が使ひし狐一夜の内に在所へ歸り、其の文書を持ち來たり、志一に渡し、即時に斃れしゆへ、彼の狐を埋めて祠を建て、稻荷と祝ひしは、巨福呂坂上の小祠、是なりといふ。陀枳尼天(だきにてん)の法者なれば、狐を使ひしことは勿論なり。鎌倉へ下りし、初め畠山國淸(くにきよ)、野心有りて、志一に外法(げはう)を修せしめ、又、細川淸氏と國清、同意なるに依つて、上人をして淸氏にも、咒詛を祈らせん爲に計りし事なりといふ。
●「馬場小路」は正しくは「ばんばこうじ」と読み、鶴岡八幡宮西側を走る道で、鉄の井から旧鶴岡八幡宮寺二十五坊跡辺り(小袋坂の下、道路が左へ大きくカーブル辺り)までを指した。
●「畠山國淸」(?~貞治元・正平十七(一三六二)年?)は南北朝期の武将。尊氏・直義に従って九州・畿内を転戦、京都を制圧して和泉守護となり、次いで紀伊守護となった。一度は直義についたが、結局、尊氏に寝返り、鎌倉公方足利基氏の補佐を命ぜられて関東執事となって鎌倉入りし、権勢を振るった(但し、彼は着任早々、鎌倉府を武蔵入間郡入間川に移して入間川御陣としている)。後に失脚、基氏と争うが敗北、その後の消息はよく知られていない。
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現在は訪れる観光客も少ないが、旧巨福呂坂切通の直近であったから、古えの様相はもっと賑やかであったに違いない。]
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