命 村山槐多
命
命はかすれながらつづく
それは色のけむりだ
それは薄いひくい紫の色階だ
それは消え去るもので
しよせんは一またたきのまぼろしだ
その薄いけむりはつづく
その命にささへられて肉體は立つ
ピストルを打つ樣に光をうつ
日の強さ
それを幽かにかすめて
薄い紫がつづく
×
金色の酒をくみて
うたひさはぎしあとに
つかれおぼえて
吐きし薔薇色の酒よ
うらめしきその酒、
×
黑い顏の男よ
紫じみて見える男よ
すこし狂じみても居る男
泣くな
なげくな
しよげるな
日毎にお前は海べりの砂丘に
よろめき上る
狂の樣に日にあたつて居る
暑くはないか、くるしくはないのか
物ずきな男よ
お前はゾロアスタ一教徒か
日にかつえて居る男
日に裸をこがしては
泣いたり笑つたりひつくりかいつたりする男よ
[やぶちゃん注:「全集」年譜の大正七(一九一八)年(二十三歳)には、十月の中旬頃として(以下に見るように年譜であるため「全集」では十月に相当の部分が太字)という書き出しで以下のように記されてある。少し長いが、詩篇を読み解く上で、当時の槐多の心境を押し量るにどうしても必要であり、本詩篇の成立時期を推理する上でも欠かせない。筆者の山本太郎氏も許して下さるであろう。
《引用開始》
一〇月の中旬頃、外房の波太という小さな漁村外房の波太という小さな漁村に塊多はいた。そして勝浦の東条村の東条病院に入院した。京都時代に過したあの土蔵に似た部屋が病院の分院に使われていた。
しかし塊多は日々回復する健康を信じ、再生の悦びにもえ、九十九里の片田舎から脱出しようと決心した。一日に二、三里ずつ歩いて東京へ出ようとして歩きはじめ、七日目の夕方彼はついに倒れた。旅人宿にもぐりこむと喀血が塊多を襲った。再生の悦びは忽ち昏い絶望にかわった。
塊多は宿屋をとびだすと近所の酒屋へかけこみ酒を一升かった。それをのみながら海の方へ歩いて行った。海辺の宿にいるという若い画家をたずねた。彼はあっけにとられているその絵かきをつかまえ気炎を吐いた。心は虚ろであった。岩礁の方へかけて行った。残った酒を毒のようにあおり、のんでは血を吐き、血を吐いてはのみつづけた。岩の上は紅に染った。潮がみち槐多の体を濡らした。彼はいまは冴えかえった意識で静かに死を待っていた。
浜の料亭で漁夫たちがさんざめく声がきこえてきた。しかし一時間の後、枕多は宿の主人に発見され車で病院へおくられた。雨が降ってきたので親切な宿の主人は傘をもって海岸へ彼を探しにきたのだ。
電報におどろき山本鼎もとんできた。一〇日ばかりたち、槐多は鴨川からの汽船にのり東京へ帰った。
牛込の両親のもとに数日いた彼は、再び代々木の奥の一軒家を借り、最後の孤独な生活に入っていった。
《引用終了》
この「波太」は「はた」と読むが、明治までは「なぶと」と訓じたらしい。九十九里の遙か南の南房総、現在の鴨川市太海(ふとみ)で内房線安房鴨川駅の一つ手前である。
次に同じ時期とその後を草野心平の「村山槐多」の年譜で見よう。
先の詩篇で引用したように、九月『二十五日、小杉未醒から送金十円を旅費にし、汽車で勝浦に行き、高砂館に投宿する』に続いての部分である。
《引用開始》
十月中頃、小湊、天津あたりの安宿を転々とし、波太という漁村で多量に喀血、瀕死の状態に陥る。鴨川町東條村の東條病院に運び込まれ、同病院に入院。[やぶちゃん注:中略。]
十月末頃、幾分健康を回復し、見舞に来た山本二郎に付添われ、鴨川発の汽船で帰京する。
帰京した翌日から、牛込区神楽町の両親の許で静養する。
十一月、当時本郷区駒込東片町に住み、清水汽船他数社を経営する実業家・清水賞太郎から、椀多、山崎省三、今関啓司の三人に奨学金が毎月三十円ずつ支給される(清水賞太郎からの三人への奨学金付与は、同氏と懇意だった山本鼎の口利によるものである)。
十一月末、奨学金により、東京府豊多摩郡代々幡町大字代々木千百十八番地の一軒家を借りる(代々木練兵場や駒場農科大学へは近くであったが、東京の電車路へは遠く、新宿に通じていた京王電車へ出るには十五、六町の距離があった。六畳・四畳の二間に台所の付いた家で、「鐘下山房」と自ら名付ける)。
《引用終了》
まるで、宿痾から解き放たれたかのような草野の書き振りであるが、実際には――この後、三ヶ月後の――翌大正八(一八一九)年二月二十日未明――村山槐多は――白玉楼中の人となるのである……。
……因みに、ここに出る波太は、かの、つげ義春の「ねじ式」のモデル地なのだった!――「かもがわナビ」のこちらのページの「空想をかきたてる路地たち」という写真を是非クリックされたい。あの蒸気機関車が飛び出してくる路地だ!――そうか?! 迂闊だった!……「やなぎや主人」の内房線で向かったN浦といい、そこでの男のかのステキに猥雑でステキに梶井的なその振る舞いといい……実は――つげのイメージは遠く梶井基次郎とともに村山槐多とも通底していたのだった!……
「うたひさはぎしあとに」の「さはぎし」はママ。「ひつくりかいつたり」もママ。]