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2015/07/18

ブログ700000アクセス突破記念 火野葦平 蓮の葉

つい先程、2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、700000アクセスを突破した(七十万アクセス目は「芥川多加志」で検索されて訪問された iPad3 の方であった)。その記念として何時もの通り、火野葦平の「河童曼荼羅」から記念テクストとして「蓮の葉」を公開する。因みにこれは、前回公開した「傳令」の正統な続編という体裁をとった小品である。底本の傍点「ヽ」は太字で示した。【2015年7月18日 藪野直史】

 

   蓮の葉

 

 その夜も、私は、蓮の葉で姿を消すと、惡道のこころに滿ちて、家を出た。

 私の足は闇市場へむいてゐた。晴れわたつた秋の星空はきらめき澄みわたり、やはらかに吹く雨風がひやりと顏にあたる。もし風に色がついてゐて肉眼に見うるものならば、なにもない空間に靑い風がつきあたつて、そこで左右にわかれたり、はねかへされたりするのを見て、ひとびとは奇異の思ひにうたれることであらう。一直線に吹いてきた風がさういふ混亂をきたす空間に、實は姿を消した私がゐるわけなのだが、さいはひに風が無色なので、たれも私の存在に氣づく者はない。それでもつきあたれば困るので、私は市場ちかくになつて雜沓がはげしくなると、うろうろと氣をつかつて人を避けねばならなかつた。向かふからは私が見えないので、遠慮もなく歩みよつてくるからだ。それでも避け損じてぶつつかることがある、するとその男ははつと妙なことだといふ顏をするが、まさかこの二十世紀の科學の世に、忍術使ひや妖怪變化(ええうかいへんげ)がゐるといふことは氣づかないから、なにかの錯覺だらうと思ひなほす風で、首をかしげはするがさして騷ぎたてることもない。私は笑ひだすまいとこらへるのがなかなか骨だが、とにかく氣づかれないやうにあらゆる注意をはらひながら、やがて、すでに灯がともつて獨特のざわめきを示してゐる闇市場のなかへはいりこんできた。

 終戰後、絶望的な表情をおびて、敗北日本の地上に生じたもろもろの汚物のうち、この闇市場こそはもつとも精彩をはなち、一種けだものに似た奔放さをもつて、人間の墮ちてゆくべき姿のたくましさを顯著に示したものであつた。ただけふ一日の命を絶對のものとして、昨日を忘れ、明日をも考へず、思想も道義も情操もすべて弊履(へいり)のごとくすてさつたむきだしの人間の姿は、しかし罪惡をただちに構成するとはかぎらず、賤しさはかぎりがないが、またかなしいものでもあつた。貪慾と詐謀(さぼう)とエゴイズムとが塵芥(じんかい)を燒く煙のごとく市場中にみなぎつてゐて、けたたましく發する聲もどこか狐狸のたぐひのたてひきに似、さまぎまの音響のなかでまた親しみをおぼえるのだ。

[やぶちゃん注:「たてひき」「立て引き」或いは「達引き」と書き、原義は、義理や意気地を立て通すこと。また、そのために起こる争い。そこから広義の談判・交渉の意となった。ここはそれ(因みに、他にも、気前よく見せるために他人の代わりに金品を出すこと、特に遊女が客の遊興費を出してやることも言う)。]

 ここにはふつうの家庭では手にはいる望みのないもの、町の店では見ようとしても見られぬものが、まるで強力な牽(けん)引力をもつた祕密のエレキで吸ひよせられたやうに、一點に集中されて、ならべられてあつた。ずらりとならんだ店、屋臺、燒き網、天ぷら、うで卵、鰻、蟹、おでん、壽司、銀めし、ビフテキ、トンカツ、ぜんざい、しるこ、林檎、梨、柿、――かうならべる必要もあるまい。ともかくなんでもないものはないわけなのだ。さまざまの宣傳文句をかいた大きな赤提灯やのれんが秋風にたなびき、狡猾(かうくわつ)さうな眼、獰猛(だうまう)な顏、下品な言葉、そして、むつちりした眉の張りもあらはな、姐御(あねご)らしい濃化粧の女のぎよろりとした眼に、こそこそとした媚びた挨拶をするやくざらしい者もあるが、多くはほんたうに生活に窮した人々の必死のあがき、戰災者や引揚者のせつぱつまつた生活の唯一の方法としての切實さがあらはれてゐて、惡と埃のたまり場のやうなこの市場にも、無言のうちに、かかる境地へ追ひおとしてきたものに對する庶民の憤然たる抗議が感じられるのであつた。しかし、まあ理窟はどうでもよい。私は、かういふごたごたした世界が好きなのだからしかたがない。支那や南方にゐるときでも、小盜兒(シヨウトール)市場や賊街市、場末の路地にある小酒家をさまよふことがなによりもたのしみであつたのだから、思ひもかけず戰爭に負けると、支那と同じやうな闇市が日本にもできたことが、私には或る意味でたのしくてたまらないのだ。私は暇さへあればここをうろついた。ところが、いまや、私には隱身のかくれ簑たる蓮の葉がある。たれにも氣づかれず、なんの氣がねするところもなく、すべてを觀察し得る立場に置かれると、闇市場といふものがまつたく異つた表情をもつて私のまへにあらはれてきた。私の身體が人の眼についてゐるときには、私は闇市場の表通りをあるいたにすぎない。ところが姿が消えると、私は空氣のごとく自由にどこへでもはいつてゆくことができる。どんな奧まつたところにはいりこんでいつたところで、たれからも見とがめられる心配はなく、私は飽くこともなく、いつさいの深所をさぐることができるのだ。私が有頂天になつたのはいふまでもあるまい。人間の下等の根性が忍術を得た瞬間に私をとりこにし、これまではとりすましてゐた見榮がすこしも必要ではなくなつて、私はたちまち無間地獄(むげんぢごく)に墮(お)ち、ほとんど惡魔のこころになりはてた。なにをしても人に氣づかれないといふ絶對の安心があれば、人間といふものがなにを欲するやうになるかといふ最後の惡逆の一線まで、私は降りてきたのである。姿を消してゐるときの私といふ別個のものがここにあらたに出現し、蓮の葉をぬいだときにはこれまでの私として、あひかはらずとりすましてをればよくなつたのだ。すこし意味はちがふけれども、どうやら、河童のおくりもののおかげで、私はヂキル博士とハイド氏のやうな具合になつたのである。さうしてヂキルとハイドよりももつと都好合なことに、惡の化身となつた私はいまや全然人の眼につかぬ空氣となつてゐるのだ。はじめは闇市場を面白半分にさまよふたのしみのみに蓮の葉をつかつてゐた私は、なにをしてもたれからも氣づかれないといふ絶對の條件のもとに、しだいに人間の本性をあらはしてきた。

[やぶちゃん注:「小盜兒(シヨウトール)市場」昭和一四(一九三九)年十一月二十三日の原稿受理のクレジットを最後に持つ、満洲の『新大陸』編輯部北本孝尊氏の「滿洲小兒市場と農機具」(PDFファイル)に以下のようにある(ピリオド・コンマを句読点に代えた)。『滿洲名物の一つに、小盜兒市場と云ふのがある。小盜兒(シヨウトル)とは日本の言葉で云へば、泥捧の事である』。『そこで、別の名を泥捧市とも呼ばれ、日本からの旅行者などには、小盜兒市場と云ふよりも、泥捧市の方が通つてゐる位である。もともとこれは、小盜兒市場と云ふ名のものでもなく、本當は露天市場と云ふ歷きとした、公認の名があるのであるが、滿洲名物の小盜兒群が、いつとはなしにさまざまの臟品を持込み、そこに密集してゐる露天商人に二足三文で賣飛ばし、商人達は彼等小盜兒かち捨値同樣で買つたものを他の同業者に轉賣したり又は一般の人々に賣り付ける事が習はしとなり、終には小盜兒群を目當てに一儲けを企む露天商人、古物商人の群れと、反對にこれら露天商人や古物商人を目當てに手當り次第小盜兒を極め込む多數の蠅の樣な連中と、一方盜られたものを探し出し取戻さうとする被害者、盗られはしないがその中から堀出し物を見付け出さうとする好事家などが三つ巴、四つ巴となつて露天市場に出入する内に、小盜兒市場と云ふ現實的な名に置換へられて仕舞つたのである』とある。「小盜兒」は中国音では「xiǎo dào ér」(シャオタゥアール)で、「兒」はこの場合、人を侮り軽んじる卑称の接尾語であって、不良少年や若い子悪党の意ではないと思われる。]

 ところが、私はさういふ狀態のなかにあつて、ただ、あながちに得意滿面としてゐたわけではない。今宵も私は姿を消して闇市場へはいつてきたが、そのたのしさとをかしさの半面には、いひやうもない苦澁をも胸の底に藏してゐたのである。それは私が河童から蓮の葉をもらつてからの三カ月のあひだに、すこしづつ私の胸のなかに芽ばえてきたひとつの懷疑によつて裏づけられ、急速度に惡魔の道へ墮ちてゆく私を、その急速度の速度をすこしはゆるめてゐたかも知れぬものであつた。

 この蓮の葉を私がいちばんはじめにこころみたのは、三カ月ほどまへ、或る知人に對してであつた。知人といつても四五度會つたきりだが、或る日、Mといふその男は同じ年輩くらゐの女をともなつて私の家をおとづれてきた。Mはすこしは文學もやるとかで、自分のかいた原稿を持つてたづねてきてから知りあひになつたのだが、その女といふのも詩や歌をつくつてゐるとのことであつた。Mは小肥りで、猪首の、まじめらしい口のききかたをする、三十四五の男で、復員前の捕虜生活の體驗を書いたといふ長い記錄を私のところへ持つてきてゐた。S子といふつれの女は從妹(いとこ)といふことで、鼻のひくいのが難であつたが、瓜實顏の上品な顏立ちをしてゐた。私と會見して、MとS子との間になにもとくべつな話題の展開があつたわけではない。Mはきまじめな調子で、おきまりの、これから勉強していきたいのでよろしくたのむといふやうなことをいつただけで、口數のすくないS子の方もほぼ同樣であつた。MとS子は三十分ほどゐて歸つて行つたが、送りだしたあとで、ふつと私は蓮の葉をおもひだし、それをかぶると二人のあとからついて出たのである。二人はならんで坂をくだつてゆく。私はただ足音がきこえないやうに注意すればよいので、フエルトの草履をはき、一間とははなれてゐない二人の背後からしたがつて歩いた。つまり私は二人からは絶對に發見されずに、かれらの話すことはことごとくきき得る位置に身をおいたのである。二人の話しかたはがらがらと快活で、私のところにゐたときとはまたつく異つてゐた。わづか數十分前のとりすましたS子のおちよぼ口は、わくりとはまぐり煮つめられた蛤のやうにあいて、間斷なくしやべりたて、Mは傳法に眉をゆすつては卑屈な笑ひ聲をたててゐた。ひとりが、先生、先生ていへばいい氣になつてゐる、といへば、ひとりが、あんなの、どこがえらいの、といひ、片方がこのごろ榮養失調とみえて太鼓腹もへこんだ、あはれをとどめてふきだすのをがまんするのに弱つた、といへば、片方があれは女房の下にしかれてゐる顏よ、といひ、小説家が、それでもあんなのは利用しなくちや駄目だよ、まあ原稿をあづけとばなんとか道をつけてくれるかもわからん、僕のはあんまり自信はない作品だが、なにしろ捕虜生活の記錄といふのはまだ珍しいし、あの先生もそこはなんとか色をつけてくれると思ふのだが、といへば、詩人が、あたしの詩だつて、ほんとは走りがきなんだけど、あのひと女にあまいにきまつてるから、なんかの雜誌くらゐには推薦してくれるかもしれないわ、といつた。男は急になにかおもひついたやうに立ちどまつた。あ、僕はちよつと用事を思ひだした。ぜひ、けふ、誠文堂に寄らなくちやならん、本代を持つてゆく約束をしてゐたんだ、それで、S子さん、すまんが、あなた百圓ほどいま持つてないか、明日かへすが、出るときにうつかりして蟇口(がまぐち)をわすれてきたんだ。さう、いいわ、ちやうど持つてるから。さうかい、ありがたう、そんなら、さきに歸つててくれたまへ。S子が百圓札を一枚とりだしてわたすと、Mはそれをおどけておしいただくやうにしてから、洋服の右ポケツトにつつこんだ。今度はいつ合へるの? さうだな、この次の火曜にしよう、といふ別れの言葉をのこして、二人は町角で正反對の方面に歩きだした。もうすこしと思ひ、私はMのうしろからまたついて行つた。疎開あとの菜園に建てられた共同便所を見つけて、つかつかとMはそのなかへはいつた。さうしてだれもゐないものかげに身をひそめると、服の内ポケツトから、蟇口をとりだして、さつきS子からまきあげた百圓札を無造作に押しこんだ。一枚の紙幣がなかなかはいりにくかつたのは、すでに蟇口には金がつまつてゐたからであらう。それからにたりと笑つて、小便をすませると通りに出た。さうして、そこから二町ほどはなれたところにある、小さな飮食店の、きたないのれんを排して消えた。Mはその店にはいるときには臆病さうにあたりを見まはし、まるでどぶ鼠が石垣の間にかくれるやうに、さつととびこんだのである。あら、Mさん、よくきたわね、といふきんきんした女の聲がきこえた。もうこれ以上Mを追跡する必要も興味もなくなつて、私は家へひきかへした。私はただ苦笑するばかりだつた。

[やぶちゃん注:「M」この男、どうも背後に政治的なスパイの臭いがプンプンするのは私の気のせいか? それにしても札がはち切れんばかりの蟇口というのはどうも胡散臭い。ド素人のチャラ男とは思われないのである。

「一間」一・八メートル。

「わくりと」あんぐりと、とかぱっくりと、と同じオノマトペイアの造語か。或いは……河童語かも知れない。

「傳法に」「でんぽふ(でんぽう)に」或いは「でんぼふ(でんぼう)に」と読む。ここでは、粗暴で無法な振る舞いをするさまを言う形容動詞。原義は芝居や見世物等に無料で押入る者を指す。これは江戸時代、浅草伝法院の寺男達が寺の威を笠に着て、境内の見世物等をタダで見物したことから出た語で、転じて他に、女のいさみ肌・女侠客のことにも用いる。

「二町」約二百十八メートル。]

 蓮の葉の偉力はしだいに私を深味にひきいれた。私はつひに誘惑に負けて、盜みをさへするやうになつた。店頭につやつやしい光澤をはなつてならべられてゐる果物、林檎、蜜柑、柿、葡萄、その一つを私はとる。私の手にふれた瞬間に、林檎でも柿でもすつと消ええる。常人は林檎が減つたことに氣づきはするが、眼前にゐる犯人を發見することはできない。かたはらにゐる者に嫌疑をかけて、口論となり、喧嘩となる。私はまた果物をもとにかへす。商人たちはあつけにとられるが、忍術つかひがさういふことをしたといふことには、毛頭氣づく筈もない。さうして、嫌疑をかけた相手が、こはくなつてかへしたものとし、品物はかへつたが、盜心をにくんで、さらに喧嘩はおさまらない。さいはひにして、そのときは私はそれをいたづらですますことができたが、つひにほんたうの泥棒となるときがきた。冬の雪のなかでも麥酒(ビイル)の好きな私にたいして、ずらりと麥酒の山がきづかれてあつてはたまつたものではない。町では手に入らず、たまにあつても莫大な値段で、新圓には緣のない私など、手の出しやうもない麥酒が、闇市場の倉庫にびつしりと積んであるのだ。もし私が蓮の葉をもつてゐなかつたら、そんなものの存在すら氣づかずにすんだであらう。しかしいまや風のごとくどこにでもはいつて行ける私は、ある夜、喧騷をきはめる闇市場の、裏手の、ほとんどたれも氣づかない石塔場のブリキ小屋が、麥酒の寶庫であることを知つた。足場のわるいまつ暗なその場所に、店のおやぢがときどきこつそり通つては麥酒をとりだしてきた。いやしい私は見ただけでもうぐうと咽喉が鳴り、腹の蟲が猛烈にさわぎだして、どうにも誘惑に勝つことができなくなつた。さうして私は自分の竊盜(せつたう)にたいして牽強附會(けんきようふかい)をおこなつて、みづからの行儀を正常化しようとこころみた。この麥酒はもとはどこから出たか。おそらく配給か業務用かの安い麥酒を横ながしして、眼の出る闇値で賣つてゐるものにちがひない。公定は六圓乃至八圓、それを、ここの値段はだいたい一本六十圓から百圓、さすればあたかもその巨利といふものは泥棒行爲にも比すべきものだ。自分が一本や二本とつたからとて、損害をかけることには全然ならず、むしろその惡德行爲をこらしめることになる。私はさうきめた。泥棒にも一理窟とはこのことであらう。私は鼠小僧次郎吉のやうに義賊となつたわけである。さうして、私はつひにその倉庫から麥酒を二本拔きだしてきた、飮んだ。麥酒の味はにがかつた。酩酊(めいてい)すると、頭からずり落ちさうになる蓮の葉をあわててささへて、逃げるごとくわが家へ歸つた。

[やぶちゃん注:「新圓」昭和二一(一九四六)年二月十六日夕刻、当時の幣原内閣は戦後のインフレーション対策のために金融緊急措置令を発し、新紙幣(新円)の発行と、それに伴う従来の紙幣流通の停止などに伴う通貨切替政策を行った。以下、参照したウィキ新円切よれば(アラビア数字を漢数字に代えた)、『第二次世界大戦の敗戦に伴い、物資不足に伴う物価高及び戦時中の金融統制の歯止めが外れたことから現金確保の為の預金引き出し集中の発生、また一方で政府も軍発注物資の代金精算を強行して実施したことなどから、市中の金融流通量が膨れ上がり、激しいインフレが発生した対策が背景としてあ』り、『この時同時に事実上の現金保有を制限させるため、発表翌日の十七日より預金封鎖し、従来の紙幣(旧円)は強制的に銀行へ預金させる一方で、一九四六年三月三日付けで旧円の市場流通の差し止め、一世帯月の引き出し額を五百円以内に制限させる等の金融制限策を実施した。これらの措置には、インフレ抑制(通貨供給量の制限)とともに、財産税法制定・施行のための、資産差し押さえ・資産把握の狙いもあった。このとき従来の紙幣(旧円)の代わりに新しく発行されたのがA百円券をはじめとするA号券、いわゆる新円である』。『インフレの抑制にある程度成果はあったものの、抑えきることはできなかった。そのため市民が戦前に持っていた現金資産は国債等債券同様にほぼ無価値になった』が、『硬貨や小額紙幣は切替の対象外とされ、新円として扱われ効力を維持した。そのため小銭が貯め込まれた。また市民は旧円が使えるうちに使おうとしたため、旧円使用期限までの間は、当局の狙いとは逆に消費が増大した』。『占領軍軍人は所持する旧円を無制限で新円に交換することができた。十分な新円紙幣を日本政府が用意できな』かった『ため、占領軍軍人への新円支払いにはB円軍票が用いられた』。『また新円紙幣の印刷が間に合わないため、回収した旧円紙幣に証紙を貼り新円として流通させた。この際に証紙そのものが闇市で出回っていたという証言がある。証紙付き紙幣は後に新紙幣との引換えが行われた後に廃止され無効となった』とある(下線やぶちゃん)。因みに本作は昭和二二(一九四七)年九月文芸春秋新社刊の小説集「怒濤」に所収しているから、作品内時制は新円切替からそう時間の経っていない時期であることが判る。]

 私の破廉恥行儀ははてもなくひろがつた。私にあたへられた有利な絶對的位置は、私をさまぎまの欲望にかりたてた。私はつひに友人たちの家庭のなかへしのびこむやうになつた。私はさういふ私の行爲のなりゆきをいちいちここへならべようとは思はない。また語るにたへぬこともあれば、はなすをはばからねばならぬこともある。人間といふものが表と裏とでどんなにちがふものか、また思ひもかけずどんな祕密を持つてゐるものか、さういふことがすべて私の忍術のまへになまなましく、なんのかくしだてもなく露呈されてきた。役人の家にしのびこんで見ると、かれが役所でいつたりしてゐることと正反對の生活をしてゐることがたちどころにわかる。闇を撲滅しなくてはならぬとひとびとに説き、淸廉でとほつてゐる人の家の、押入や、床下、物置などに、闇物資が山積されてゐる。女ぎらひといはれ、女房孝行と評判の男が祕密の場所に女をかこつてゐる。かれらは私がかたはらにゐることなどはまつたくわからないので、どんなことでもいひ、どんなことでもする。人間がたつた一人で、どこからも自分を見てゐる者がないと確信したときに、どんなことをするかといふことが、まざまざと眼前に展開される。私はつひに賤しい色情のとりことなつて、つひに知人の閏房にまで立ちいたる。男女ふたりきりの肉體の饗宴を、部屋のかたすみでじつと見てゐる私といふものは、いつたいなんであらう。晝は髭をはやし、ステッキをふり顎をひねつて鹿爪らしい口のききかたをする紳士が、女とのまじはりでどのやうに獸にちかいおこなひをするか、また、しとやかな明眸(めいぼう)の女がどのやうにこの陶醉のなかでおぼれた姿態をしめすか、しきられた世界のなかで羞恥をわすれられた行爲のたけだけしさは、私の胸を壓し、私を息ぐるしくする。それはしかしきたないばかりではない。含羞(がんしう)のうつくしさをもつておこなはれる淸純のまじはりもあつて、私は人間の祕密がすべて唾棄すべきものばかりだとは毛頭思はないが、いづれにしろ、人の眼からは守られてゐなければならぬ生活の部分が、のこりもなくなまなまと私の眼にしめされるといふことは、さいしよの誘惑による興味と好奇とをしだいに超えて、私にはひとつの試煉となり、苦澁となつてきた。そして、五人もの母親で貞節の名のあるKの細君が、むかし學生時代に戀しあつたことのあるといふ男とよりをもどして、ときどき合つてゐることを知り、そのあひびきの濃艷な場面に立ちあつて、私はつひに忍術の恐怖にとらはれるにいたつた。私の下等な好奇心はいつか私には苦痛をあたへるものとかはつて、蓮の葉にたいする疑念が生じてきた。便利な面白いものとしてよろこんだこの河童のおくりものが、私には重荷になつてきたのだ。たしかに、私はこれによつてなにもかも知ることができる。知人たちのみならず、私の父の、母の、妻の、弟の、子の、祕密をも知らうと思へば知ることができるのだ。じつさい私はさういふ誘惑にしばしばおそはれたが、いまだ私の肉親にたいしてはこれをこころみなかつた。こころみる勇氣がどうしてもわいてこなかつたのだ。知ることがおそろしく、生活の破滅をさそふ戰慄を私にあたへた。人間の眞實をふかく探求することが文學者の使命だといはれる。さすれば私は蓮の葉によつてそのことを苦もなく實現することができる。私の忍術のまへにはなにびともその裸身のすがたをかくすことができない。さうして私のまへにはもはや祕密などといふものはさらになくなつたのだ。私は自分のきらひな人間にどんな復讐でもし、欲しさへすればなんの證據ものこさずに殺人することすら可能である。しかしながら、その倣岸(がうがん)の思惟(しゐ)がしだいに私を倦怠にみちびいてきたとき、私は卒然として、蓮の葉の効用について疑念がわいた。人間の祕密とはなんであらう。またその人間の祕密を飽くなく探求しようといふ文學の熱情とはなんであらう。人間がその智能のゆるされた垣のなかで、あがき苦しむそのやうな熱情の純粹さが、宗教的なものとなつて、人間にかがやきをあたへるのではないであらうか。そこに求道のよろこびもわくのではなからうか。人間のすがたを裏も表もむざんにのぞき知りつくすことが、眞に人間を知ることかどうか。それが幸福かどうか。また、いかにも私の忍術は人間の醜惡と汚濁(をだく)をいつさい看破することはできるが、なほその心情についてはうかがひ知ることのできぬものがある。立派な人物だと思ふ男がかげでは破廉恥な行動をする。あこがれてゐたうつくしい女人が、くらい場所では娼婦にちかいといふことを知る。その知りかたが蓮の葉によるといふことが、自分にとつてはたしてさいはひであるかどうか。私は盜まうと思へば唇すらもぬすむことができるが、そのやうな盜みかたが、自分を滿足させるかどうか。女人を愛し、女人からも愛されて、その愛情の象徴として唇がさしだされるのでなければ、唇の價値がどこにあらう。戀愛の生理は心情に裏づけられなければ、その接觸は動物となんらかはりのないものではないか。人間の祕密の價値はうかがひ知ることのできぬ幕の存在によつてはじめて高められ、うつくしいのではないか。かくて私は蓮の葉を抛棄(はうき)しようといふこころがしだいにきざしてきたのである。人間の祕密はそつとしておいてはじめてうつくしく、またむやみにほじくつてはならぬ祕密もある。その祕密を限界のある人間の凡庸な頭腦と、限定された行動とによつてさぐることのなかに、人間の生き甲斐があるのではないか。手がとどかぬと焦躁する祕密が苦もなく知り得るといふことになれば、その無味乾燥はいひやうもなく、またその倦怠もかぎりがない。私はさうして蓮の葉の効用をうたがひはじめるとともに、このために惡魔となつて墮落してゆく自分の姿に戰慄のこころがわいた。私が探求の姿勢をうしなつたとき、もはや人間の眞實から遠ざかつてゐたと知つて、私の貪婪(たんらん)で下等な趣味、知人の閨房にまで立ちいたる獸のこころにはげしい嫌惡の情がわいた。私は自身にはげしく鞭をあてはじめた。にもかかはらず、なほいやしい私はこのすばらしい隱身の具をただちに破りさる決斷がなかなかつかないのだ。さうして、また、今宵も、麥酒にありつかうといふきたない慾心をいだいて、闇市場へさまよひでたわけである。

[やぶちゃん注:「貪婪」飽くことを知らないこと、大変に欲深(よくぶか)であること、また、そのさま、貪欲の意の「貪婪」は「どんらん」の他にも「とんらん」そして、ここのように「たんらん」とも読む。「貪」の「ドン」は慣用音で、もともとの漢音は「タン」「トン」である。]

 ほとんど毎夜のごとく盜みだすのであるが、闇市の倉庫にはつぎつぎに麥酒が補給されてゐて、無駄足になることはなかつた。私はまたも麥酒をしたたかに飮んで、酩酊した。

 不夜城といはれるこの一角は喧騷にみち、さまざまのにほひが交錯して鼻がいたくなるほどである。ここで幅をきかしてゐる一人の姐御に、私はまへから氣づいてゐたが、「おでん、かん酒」の紺ののれんをかけた、ぐつぐつと關東煮の鍋が湯氣をたててゐる、ブリキ屋根の屋臺のなかに、今宵もかの女は大胡坐(おほあぐら)をかいて、燒酎をかたむけてゐた。年のころは三十前後、大柄で、顏のつくりもすべて大道具ぞろひ、とくに鼻孔が大きいのがめだつが、それでも妙に仇つぽくて、そのはちきれさうな肉體のつやつやしさは、あたりに情念のほむらを放出してゐるやうに見えた。實は私は或る夜この女の歸宅するのをつけて行つて、その家庭の情況を見知つてゐた。闇市を徘徊する屈強の男たちも、この女には一目置いてゐて、女親分といふところだが、じつは家にかへるとよい母親で、五つになる男の子をやさしくいたはり可愛がつてゐた。たれの子かわからないが、その女親分は自分の過失のつぐなひをするやうに、その子に自分の生活のいつさいをささげるといふやうな獻身的犧牲の樣子があらはれてゐた。べつに男が通つてくるでもなく、市場のあばずれは意外に家ではしとやかな母であつた。私が惡魔になりきつてゐたならば、むしあつい夜の、しどけない女の寢姿に不倫の行爲もなし得るのであつたが、私はさいはひに生來の氣弱から、そこへ墮ちることからはまぬがれ得た。あやふい一線である。私は顏があからむばかりだ。動悸もうつ。しかし、私はわづかに淸淨になつて、誘惑から遠ざかる。ところが、今宵は、意外なできごとによつて、私はこの女親分のまへに姿をさらすことになつてしまつた。

 夜明けにいたるまであかあかと灯がたゆたひ、色とにほひと音とが華麗に亂舞して、この不夜城の雜沓はつづくのであるが、その姐御はのこしてある子供が氣がかりになると見えて、たいてい十二時までで店をしまつてかへるのが習慣になつてゐた。その男の子はくりくりとした色白のかはいい子で、腰が海老(えび)のやうに曲つた婆さんが守りをしてゐた。實は私は家を出るときに、鐡製の機關車の玩具を持つてゐた。いつかその姐御の子供がしきりに欲しがつてゐたが、まだ町には木製玩具ばかりで、鐡玩具のすくないときだつた。私はちやうど自分の子供の飽いた機關車があつたので、それを女の子供にやるつもりで、腰にぶらさげてゐた。そこで、姐御が店をしまつて歸路につくと、あとからついて行つた。麥酒をすこし飮みすぎて、若干朦朧としてゐたので、いつものやうにこまかい注意がとどかなかつた。寺のあるくらい通りを、赤緒の下駄を鳴らして急ぎ足で歸るスーツ姿の姐御は、ときどき、怪訝さうにうしろをふりかへる。夜で人通りはまつたくなく、星あかりでかすかに明るかつたが、女がふりかへるのは、私の足音がきこえるからであつた。私はフェルトの草履をはいてゐたので、氣をつければ音はしないのだが、醉つてゐたために、足がみだれて、ときどき、ペたペたと鳴つた。たれも見あたらぬ深夜の町で、一間とははなれてゐない背後に足音がきこえては、いかに豪膽な女でも不氣味にちがひあるまい。巨大な姐御もしだいに不安と恐怖のいろが顏に濃くなつてきて、歩度はさらに早まつたが、たうとう走りだした。私もついて走つた。おくれて、鍵をかけられてしまつては、さすがの私も入ることができないからだ。それはかへつて女を恐れさせた。もはや私の足音はかくしやうがなく、ペたペたぺたぺたぺたと女の背後からくつついてゐたからだ。疎開あとの菜園の横を拔け、煉瓦塀に沿つて、やがて近くなつた女の家への路を、私たちは走つた。

 ところが、奇妙なことがおこつた。女のあとから走つてゐた私は、とつぜん頭をばさばさとかきむしられる氣配に、おもはず、あつと聲をたてた。うしろへひきたふされさうな感じがしたが、とつさのことで、なにかさつぱりわからなかつた。天からにはかになにか落ちてきたかと立らどまつてあふむいたが、空には星がきらめいてゐるばかりで、なんの變化も見られなかつた。すると、立ちどまつてゐた姐御が、ふりむいて、私の方を見、けたたましい、魂ぎるやうな叫び聲をたてると、毬がころげるやうにして一散に逃げだした。ロケットででも押されるやうな速さだつた。かの女はあきらかに私の姿を見たのだ。とつぜん天から降つてわいたやうに出現した私を、亡靈とでも思つたのであらう。なんとしたことか。私は知らぬ間に姿があらはれてゐたのだ。蓮の葉がはづれて落ちたかと地上を見たが、どこにも見あたらなかつた。蓮の葉はのせただけでは落ちやすいので、顎紐をつけて頭巾のやうにかぶることにしてゐた。その蓮の葉がいつかなくなつてゐるのだ。さつきのかきむしられるやうな衝擊はなんであらう。私は腑におちぬことばかりなので、あつけにとられてぽかんと立つてゐた。

 すると、足もとから私をよびかけるものがあつた。ぺちペちと皿をはじくやうな音なので、それが河童であることはすぐにわかつた。河童の姿は見えなかつたが、あきらかに輕侮の念をまじへた語調で、河童は、自分はあなたを見そこなつた。蓮の葉を進呈したのもあなたを信用してのことだつたが、これで姿を消して女のあとを追つかけるやうなことをしてもらふためではなかつた。けふは月の二十五日で、山に石地藏の釘を見にきて、まだ拔けてゐないので、珍しさまぎれに闇市場を見物にきた。そしたらあなたのいやしい行爲に出あつておどろいた。蓮の葉はとりかへすことにする。――さういふ意味のことをいつた河童は、いひ終ると、そのまま立ち去つた模樣であつた。

 私はだまつてゐた。なにもいふことはできない。羞恥で顏が赤らみ、頭がひとりでに垂れた。蓮の葉にたいして疑念がわき、その疑念はいくらか純粹で高貴なものとうぬぼれてゐたのに、なほ優柔不斷で、いさぎよく蓮の葉を抛棄(はうき)する勇氣がなかつた。その未練はやはり助平根性で、日和見的であつた。そしてつひに河童から輕蔑されるにいたつた。蓮の葉をいまは惜しいとはおもはないが、その失ひかたがみづからの心を基點とせず、強奪されることに原因してゐたことは、私の心を重くした。はげしい自己嫌惡のために、私はもはや人に口をきく資格もなくなつたと隱栖(いんせい)の思ひすらわいた。

 悄然と歩をはこんで、私は女の家のまへまで行つた。そして、腰に下げてゐた鐡製の機關車を入口の扉のかたはらにぶら下げると、秋ふかく冷氣のしみる深夜の町を、星あかりに照らされ、重い心をいだいて、家路についた。

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