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« 金剛光中の遊戯   村山槐多 | トップページ | 氷の涯 夢野久作 (17) »

2015/07/02

氷の涯 夢野久作 (16)

[やぶちゃん注:ここに底本の挿絵を配す(挿絵には「mae」と思しいサインがあるが、画家は不詳。底本とした国立国会図書館近代デジタルライブラリーでは書誌情報に本書全体が『インターネット公開(保護期間満了)』と示されているので、著作権侵害に当たらないと判断した)。]

Koorinohate4
 
 僕は何も云はなかつた。否……云へなかつたのだ。

 ニーナの話を聞いてゐるうちにスツカリ醉ひが醒めてしまつた僕は、最早、何一つ考へる力も無いくらい疲れ切つて居る自分のアタマを、頭蓋骨の内側にシミジミと自覺して居たのだ。

 それは此二、三日の間突發して來た恐ろしい出來事の重なり合ひに對して、あらん限り絞り上げて來た僕の腦味噌が、急激な神經衰弱に陷つてしまつたせいかも知れない。事件の眞相が頭の中心でボーツとなつてしまつて、ニーナの僕に對する途方も無い見損(みそこな)ひを笑ふことも辯解する事も出來なくなつたばかりでない。自分一身の處置を、これからドウしていゝかすら見當が付かなくなつてしまつたのだ。たゞ兩手を顏に當てゝ石の樣に固くなつたまゝ、形容も想像も及ば無い無鐵砲なジプシー女の、斷乎たる決心に引きずられて行(ゆ)く意氣地(いくぢ)の無い自分自身の兵隊姿を、眼の底に凝視しながら、痺れ上つた頭の中心の遠く遠くにジイイーと鳴る血管の音を聞き澄まして居るばかりであつた。

 けれども、其のうちに彼女の話が終ると、僕はホツと溜息をしながら顏を上げた。さうして彼女が投げ込んだ梨の波紋を何氣なく振り返つたが、そのまゝハツと息を詰めた。

 背後(うしろ)はるかに隔つた大鐵橋の左手が、大きな大きな夕日の色に染まつてゐる。さうしてその大光焰(だいくわうえん)の中心に、見紛ふ方ない銀月の雄大な鐵骨が、珊瑚(さんご)のやうに美しくイルミネートされながら輝きあらはれて居るのを、ボートの背後(はいご)に起つた長い長い波動が巨大な眞紅の鳥のやうに、又は夕燒雲のやうに搔きまはしながら引きはえて居るのであつた。

[やぶちゃん注:●「巨大な眞紅の鳥のやうに」「全集」ここを『巨大な真紅の島のように』とする。ハルピンには確かにこの「銀月」のあると思しい位置の直近の松花江の川中に「太陽島」という当時からの何となく、火災にイメージのダブる避暑地(観光地)があるにはあるが、これはどう考えても――燃え盛る「銀月」の紅蓮の炎を火の鳥とした比喩――であり――『「鳥」であつて「島」なんかぢやあない!』――と私は叫びたいのである! これは私はとんでもない単行本或いは「全集」の誤植(久作が「島」に変えるはずがない)であると断ずるものである。

 僕は身動き一つしないままその光を一心に振り返つてゐた。何の音もなく雲の下腹(したばら)を焙(あぶ)り出してゐるその偉大な大光明(だいくわうみやう)の核心を、いつまでも、いつまでも凝視して居たが、そのうちに何とも云へ無い奇妙な氣持ちで胸が一パイになつて來た。

 それは狼狽でも驚きでもなかつた。ただ無闇にシインと靜まり返つた、物狂ほしいやうな……底悲しいやうな氣持であつた。おそらく僕の醉ひざめの沈み切つた神經が、僕自身の絶望的な前途を豫感した微妙な動搖であつたらう。僕がこの時知らず識らずに陷つてゐた大失敗……銀月の女將の執念と云つてもいゝ恐ろしい運命の谷底に向つて、ニーナと二人連れで突進して居たことを、僕自身にもわから無い心の底の心が直感して居た、その戰慄であつたらう。

 その大光明を振返つて居た僕は、何かなしに、もう二度と再び哈爾賓に歸れない樣な氣持ちになつて來たのであつた。同時にかうしてグングンと人間世界から引離されて行(ゆ)く自分自身のたまらない一種の淋しさが、時々刻々に倍加して行(ゆ)くのをヒシヒシと感じたのであつた。

 ……何故あのまゝに自首して出なかつたらう。すべての罪を、自分一人に結び付けられても構はない。誤解された陸軍歩兵一等卒としての愚かな一生を終らなかつたらう……と云つた樣な極めて、超自然的な後悔の氣持が、靜かな十二汽筒(シリンダー)の震動につれて、あとからあとから湧き出して來た。さうして見る見る取返しの付かなくなつて行(ゆ)く自分自身の運命を、千萬無量の思ひに湧きかへる上流の火の粉と艇尾(ていび)の波紋の美觀と一緒にして、ウツトリと見惚(みと)れて居たのであつた。

 そのうちに僕はヤツト氣が付いてニーナの方を振り向いた。無言のまゝブルブルと震へる指をソツと彼女の肩に置いた。

「……マア……キレイ……」

とニーナは振り返りさま日本語で叫んだ。ピタリと器械を止めながら、危險を忘れて河の中流にコースを取つた。それにつれて火光(くわくわう)を眞正面(まとも)に受けたニーナの顏が見る見る眞赤に輝き出した。僕の顏をチラリと見ながら露語で尋ねた。

「……あれは銀月ぢやない……」

僕は無言のまゝうなづいた。

「……アンタが火を放(つ)けたんでせう……」

 僕は泣きも笑ひも出來ない氣持になつた。法廷に引出された人間のやうに顎(あご)を震はしながら云つた。

「……そればかりぢやないよ。ニーナさん。あの光りの中心に……銀月の女將の……白骨が寢てゐるんですよ」

「……まあッ……嬉しいツ……」

 とニーナは又も日本語で叫びながら坐席を飛び出して來た。重なり合つたガソリンの罐を飛び越えて、艇尾に坐つて居る僕の首つ玉に飛び付いて、雨の降るやうに接吻し散らした。

「……あぶないよ。ニーナ……ボートが引つくり返るよ……見つかるよ官憲に……」

 と云ひ云ひ押し除けようとしたがニーナはなかなか離れなかつた。

 ボートはいつの間にか艇尾を下流に向けながら押し流されて居た。

 すると其時であつた。何處からか傳はつて來た……ビシツ……といふ烈しい空氣の震動と殆んど同時に、

 ツタ――ンンン……

 と云ふ銃聲が、兩岸の暗(やみ)をはるか震撼(しんかん)して行つた。……と續いて二ツ三ツ……

 ピシツ……ツタ――ン……

 ピシツ……ツタ――ン……

 ピシツ……ツタ――ンンン……

 それは日本の官憲のものだか、赤軍の監視隊のものだかわからなかつた。いづれにしても僕達を十五萬圓の拐帶犯人と睨んでゐるには違ひ無いと思はれた。

 しかし僕は慌てゝ身を伏せたりなんかしなかつた。アタマがどうかなつて居たせゐであつたらう……兩手で舷側(げんそく)を押へながら、何とも云へない一種のなつかし味(み)を感じつゝ音のする方向を振り返つてゐた。射たれてもいゝ。捕へられても構はない。その方が早わかりだ……と云つた樣な遣(や)る瀨(せ)ない氣持に囚はれつゝ……。

 不思議なことにニーナも僕と同じ樣な姿勢を執つてゐた。何と思つて居たのかわからないが……或は彼女獨得(どくとく)の無鐵砲な好奇心から相手の正體を見定める積りだつたかも知れない。お椀帽子(わんばうし)を冠(かぶ)り直しながら伸び上つて、三四百米突(メートル)ばかり向うの河岸の草原(くさはら)の中から、パツパツと迸(ほとばし)る小さな火光(くわくわう)を透かし覗いて居る樣であつたが、そのうちに思ひもかけない左手の水面がパツと跳ね上つて、横シブキの冷めたい霧がサツとボートの上を掠めると、ニーナはプーツと頰を膨らましながら平手で顏を撫でまはした。

「ププッ……ニチエウオ――」

 と一と聲叫んだと思ふと、ガソリンの罐を跳(をど)り越えてハンドルに飛び付いた。星あかりに私の方を透かしながら、ニツコリと笑つた……と思ふうちに兩舷(りやうげん)の排氣管(エキゾーストパイプ)からモノスゴイ火煙(ひけむり)が流れ出して河の中心に半圓を描(ゑが)いた。蒼白い、明煌々(めいくわうくわう)たるヘツドライトを射出(いだ)すと同時に、ボートよりも大きい、高い、長い浪を眞白に盛り上げて、背後(うしろ)の大光焰(だいくわうえん)を轟々と吹き散らし始めた。

[やぶちゃん注:●「ププッ……ニチエウオ――」“Будтo…здоровы…”(きっと……大丈夫!――)か? ロシア語の出来る方の御援助を乞う。 ●「排氣管(エキゾーストパイプ)」“exhaust pipe”。“exhaust”は「排気装置」の意。 ●「モノスゴイ火煙(ひけむり)が流れ出して河の中心に半圓を描(ゑが)いた」は「全集」では『モノスゴイ火煙が流れ出した。艇尾(スターン)が河の中心に半圓を描いた』と加筆されている。ルビの「スターン」は船舶用語“Stern”で船尾・艫(とも)の謂い。]

 僕は振り落されさうになつた身體(からだ)を辛うじて喰ひ止(と)めた。兩手で顏を蔽(おほ)うてグツタリとうなだれながら心の底でつぶやいた。

「……すみません。皆さん。濟みません。……僕にはドウしていゝか……どうなるのかわかりません……許して下さい……」

 と云つた意味の事を、當(あ)てどもなく祈り續けた。

 島(しま)の間(あひだ)をいくつもいくつも通り越して、哈爾賓の光りが全く見えなくなつてもニーナは速力を落さなかつた。あぶないからハバロフスクまで逃げるのだと云つた。さうして夜が明けると、道路に遠い支流を上つて、深い犬蓼(いぬたで)の茂みにボートを乘り入れて、白パンとコーンビーフと冷水(れいすゐ)の朝飯を攝(と)つた。

[やぶちゃん注:●以下、一行空き。但し、「全集」では空きなしで続いている。]

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