『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 圓覺寺
●圓覺寺
圓覺寺は瑞鹿山と號す。鎌倉五山の第二なり。弘安五年十二月八日相摸守北條時宗の建(たつ)る所。開山は宋僧佛光禪師〔名は祖元字は子元〕なり。外門は已になし。總門には瑞鹿山の額を掲く。
[やぶちゃん注:やや長いので、段落ごとに注する。
「弘安五年」一二八二年。]
後光嚴天皇の宸筆なり。山門の額には圓覺興聖禪寺とあり。當初開堂の日白鹿(はくろく)群來し。又此地を開く時圓覺經を掘獲せしを以て山號寺稱(さんがうじしよう)とせり
花園天皇の宸筆ところ承りぬ。山門の製作は建長寺と異なるなし。佛殿には大光明寳殿と題せる額を表(へう)す。
[やぶちゃん注:「ところ」はママ。「とこそ」の誤植か。]
是れ亦後光嚴(ごくわうごん)天皇の宸筆に係る。其の下又額あり。表面に祈禱裏面に修正〔夢窓筆〕の文字(もんじ)を記せり。本尊寳冠の釋迦佛を安置す。脇士梵天帝釋は。卿殿の作なり。永和二年十月再興。永祿年中火災に遇ひ。寬永二年再建すと云ふ。方丈は聖觀音の木像を安置す。其の後山を白鹿洞といふ。上に鹿岩あり。鐘樓は佛殿の南の方山(やま)の上に在り。石階(せきかい)を蹈(ふん)て登るベし。洪鐘高さ八尺。掛くる用の鐡環(てつくわん)は劍工正宗の作る所といふ。銘文は左の如し。
[やぶちゃん注:「卿殿」不詳。識者の御教授を乞う。
「永和二年」一三七六年。
「永祿年中」一五五八年~一五七〇年。
「寬永二年」一六二五年。
「八尺」二・四二メートル。
以下、鐘銘には一部に漢字の誤りがあるので「新編鎌倉志卷之三」に載るそれで訂した。]
相摸州瑞鹿山圓覺興聖禪寺鐘銘
鶴岡之北富士之東。有大圓覺。爲釋氏宮。恢廓賢聖。蹴蹈象龍。範圍天地・槖籥全功。鎔レ金去レ鑛。鍛鍊頑銅。成大法器。啓廸昏蒙。長鯨吼月。幽谷傳レ空。法王號令。神天景從。祐民贊國。植レ德旌レ忠。停レ酸息レ苦。超二越樊籠。高輝二佛日一。普扇二皇風一。浩々湯々。聲震二寰中一。風調雨順。國泰民安。皇帝萬歳。重臣千秋。正安三年辛丑七月初八日。大檀那從四位上行相摸守平朝臣貞時勸レ緣同成二大器一。當寺住持傳法宋沙門子曇謹銘。
[やぶちゃん注:この銘は「當寺住持傳法宋沙門子曇謹銘。」以下の最後の部分が省略されている。以下に「新編鎌倉志卷之三」に載るものを示す。
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勸進者舊僧宗證、奉行、兵部橘朝臣邦博、同兵庫允源朝臣仲範、大工、大和權守物部國光、掌財、監寺僧至源、道虎、此月十七日巳時、大鐘昇樓、洪音發虛、謹具名目于后、喜捨助緣僐信、共壹千五百人、本寺僧衆、貮百三十員、大耆舊、慧寧・覺眼・宗證・道範・頭首、覺泉・覺俊・師侃・玄挺・崇喜・道生・性仙、知事聰因・知足・可珍・至牧・天順・元安・祖安、西堂德凞・自聰・德詮・源淸・志遠、當寺住持宋西澗和尚子曇。
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以下、「新編鎌倉志卷之三」の私の注で私が試みた全文(ここで省略されたものをも含む)訓読文とオリジナル注を示しておく。
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相摸州瑞鹿山圓覺興聖禪寺鐘の銘
鶴が岡の北、富士の東、大圓覺有り。釋氏の宮と爲(な)す。賢聖を恢廓(かいかく)し、象龍を蹴蹈(しゆうたう)す。天地を範圍して、槖籥(たくやく)功を全きす。金を鎔し、鑛を去り、頑銅を鍛錬す。大法器を成して、昏蒙を啓廸(けいてき)す。長鯨月に吼す。幽谷空に傳ふ。法王の號令、神天景從(けいぢゆう)す。民を祐け、國を贊(たす)け、德を植ゑて、忠を旌(あら)はす。酸を停め、苦を息む。樊籠を超越す。高く佛日を輝かし、普く皇風を扇ぐ。浩々湯々として、聲、寰中に震ふ。風調ひ、雨順ひ、國泰かに民安し。皇帝萬歳。重臣千秋。正安三年辛丑七月初八日、大檀那從四位上行相模の守平の朝臣貞時、緣を勸め、同じく大器を成す。當寺の住持、傳法、宋の沙門子曇謹みて銘す。勸進は舊僧宗證。奉行、兵部橘(たちばな)の朝臣邦博(くにひろ)。同兵庫の允源の朝臣仲範(なかのり)。大工、大和權の守物の部の國光。掌財、監寺僧至源・道虎。此の月十七日巳の時、大鐘樓に昇り、洪音虛に發す。謹みて名目を后に具ふ。喜捨助緣の僐信、共に壹千五百人、本寺の僧衆、貮百三十員、大耆舊は、慧寧・覺眼・宗證・道範、頭首は覺泉・覺俊・師侃・玄挺・崇喜・道生・性仙、知事は聰因・知足・可珍・至牧・天順・元安・祖安、西堂(せいだう)は德凞・自聰・德詮・源淸・志遠、當寺住持宋西澗和尚子曇。
・「恢廓」広く大きなさまを言うが、ここは禅門として広く学僧聖賢のために門戸開いて、の意。
・「象龍を蹴蹈す」の「象龍」は聖人高僧の比喩で、「蹴蹈」は中国語では蹴躓けつまずくの意であるが、そうした聖賢が必ず足を留める、という意であろう。
・「槖籥」蹈鞴(たたら)で用いる鞴ふいごのこと(槖は袋状の物、籥は笛(吹管)の意)。
・「鑛」精錬していない金属。荒金。
・「啓廸」啓発と同じい。
・「景從」は影のように必ず伴うこと。いつも一緒にいること。
・「贊け」は前の「祐け」と同じい。
・「樊籠」は「ばんろう/はんろう」と読み、煩悩に縛られていることを言う。
・「正安三年」は西暦一三〇一年。
・「大檀那從四位上行相模の守平の朝臣貞時」第九代執権北条貞時。
・「子曇」は最後に示される宋から渡来した当代の円覚寺住持西澗子曇(せいかんすどん)。
・「大耆旧」の「耆」は六十歳の意で、式典での賓者たる大年寄り。
・「頭首」は式典の実務指揮者のことであろう。
・「師侃」は音読みなら「シカン」。
・「知事」は通常、禅宗に於いては六知事のことを指す。即ち、庶務雑事を司る六つの役職で都寺(つうす:総監督。)・監寺(かんす:住持代理で実務責任者。)・副寺(ふうす:会計。)・維那(いの:実務担当者。)・典座(てんぞ:斎糧全般。賄方。)・直歳(しっすい:伽藍修理や寺領の山林田畑の管理及び作務一式担当。)の総称であるが、ここでは鐘竣工の儀式の庶務方の意であろう。七人いる。
・「西堂」は中国で古来、西を賓位とすることから、禅宗で当該所属寺院の先代住職を「東堂」と呼ぶのに対して、他の寺院の前住職を敬意を込めて呼ぶ際に用いる語である。
・「德凞」は音読みなら「トクキ」。]
妙香池方丈の北に在り。
蒼龍窟は妙香池(めうかういけ)の左山足にあり。
開山塔は方丈の西北に行くこと四五町の處に在り。正續院と名く。門に萬年山の額を掲く。即ち佛光禪師の祠堂なり。龕中木像を置く其の精工覽るべし。山上に坐禪窟あり。禪師の趺坐せし舊跡なり。
[やぶちゃん注:「四五町」四百三十七~五百四十五メートルほど。]
三浦導寸の墓は。境内(けいない)の北邊にあり。
塔頭には佛日菴 桂昌菴 傳宗菴 白雲菴 富陽菴 壽德菴 正傳菴 萬富山續燈菴 傳衣山黄梅院 如意菴 歸源菴 天池菴 藏六菴 龍門菴 海會菴 東雲菴 慶雲菴 珠泉菴 正源菴 寶龜菴 臥龍菴 利濟菴 定正菴 瑞光菴 大義菴 長壽院 瑞雲菴 寶珠院 靑松菴 大仙菴 等慈菴 妙光菴 頂門菴 雲光菴ありしよしなれども。今は大抵廢絶せり。存する者少し。但本寺の什寳は最も多し。今之を記せす
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