走る汽罐車 村山槐多
走る汽罐車
鋭どくも走れる汽罐車は
幾度かわが眼に入りぬ
さながら紫の矢の如く
わが心を驚かしき
田端ステーシヨンを眺めんが爲め
いくたびかわれは道灌山に立ちたり
ますぐなるレールのその平行の確實さの
あまたあるうれしさを味はひにき
幾度か汽罐車は走せ過ぎにき
いと快活にいとはやくも
われはそを見る毎に嬉しさの心に充ち
躍り上りき
走れる汽罐車はそのけむりを
呼吸の如く天に投げて走りぬ
生きたるが如きその疾走は
うら若く美しかりき
常にそは走れり
ステーシヨンの構内なれば
たゞ一臺にてそれ走りまはれり
放たれたる鳥の如く
たゞ一臺自らのみをもて走れる
愛すべき汽罐車
われはそを見る毎に
われもまたその如く走らんと心に思ひき
小さく走りゆく汽罐車は
幾たびかわが眼に入りぬ
それ常にわが眼に入れたきかな
われは走る汽罐車を常に愛すれば
×
薄靑き一月の晴れたる空に
たそがれの冷めたくきたる
岩石の如き常磐樹の群は
靜かに默す
たゞひとり
薄紫の道路をかへれば
わが足はこごえ
わが心はさびし
ふとかゝる時たくましき君が肉の
熱さはわが心に再生す
わが心に思ひ出らる
黄なるココアの腕のけぶるが如く
わが心に君の思ひ出は
美しく立ちのぼるなり
[やぶちゃん注:想像した通りに――私藪野にとってである――展開する詩篇である。
「鋭どくも」はママ。
「走せ」は「全集」では「走(は)せ」とルビする。
「靜かに默す」この一行は問題で、「全集」では「靜に默すか」となっている。不審である。
「黄なるココアの腕のけぶるが如く」の「腕」は若い頃は「椀」の誤字ではないかと思っていたが、今の私は――これは確かに「腕(うで)」でなくてはならぬ――と独りごちている。……]