『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 鍜冶藤源次助實の舊地
●鍜冶藤源次助實の舊地
鍛冶(かぢ)藤源次助實(とうげんじすけざね)の舊地は東慶寺の山を隔てゝ北鄰に在り。
[やぶちゃん注:「藤源次助實」鎌倉時代の名刀工とされる人物。講談社「日本人名大辞典」によれば、備前(岡山県)福岡一文字派。助成(すけしげ)の子とされ、後にここ相模鎌倉山の内にうつり「鎌倉一文字」の呼称もある。銘は「助真」。現存作のうち二口(ふたふり)が国宝で、内、一口は日光東照宮蔵の徳川家康佩刀で「日光助真」とよばれて有名、とある。「国立国会図書館協同レファレンスサービス」の鎌倉市中央図書館の「管理番号(鎌中-2014032)」の『鎌倉市山ノ内の「藤源治(とうげんじ)」という地名の由来を知りたい』のデータに「皇国地誌 山ノ内村残稿」に助真屋敷跡が山ノ内村にあったことが確認さたと出る。本誌の「鎌倉實測圖」に書き込まれた(「鍜治藤源次助直旧地」と誤っている)位置を現在の地図で調べると、鎌倉市山ノ内一三二〇附近で、何と生地店で「一文字」という店舗が存在することが判った。北鎌倉駅から実測で二百メートルも離れていないごく直近であるが、ここは踏破したことがない(というより、知られた案内書にもこの名は載っていないことが上記レファレンス・データからも分かる。そもそもがこの電子化で実は私は初めて知ったような気がする)。今度ここは是非、訪ねてみようと思っている。
最後に平凡社「世界大百科事典」の「相州物(そうしゅうもの)」の項を引いて、神奈川の刀鍛冶を概観しておく(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更した。下線やぶちゃん)。『相州鎌倉は一一九二年(建久三)源頼朝によって幕府が開かれてから栄えたが、刀工に関しては最古の刀剣書』「観智院本銘尽(かんちいんほんめいづくし)」に、既に保元年間(一一五六年~一一五九年)に、『沼間(逗子市)に三浦氏の鍛冶で〈三くち丸〉を作ったという源藤次(げんのとうじ)同じく〈あおみどり〉〈咲栗(えみぐり)〉を作ったという藤源次(とうげんじ)らがいたことが記されている』(この名を継承或いは通称したものらしい)ものの、『これらの刀工の作は現存せず、事実上は鎌倉中期に山城国粟田口派の国綱、備前国直宗派の国宗、一文字派の助真らが鎌倉に移住したことによって相州物の歴史は始まるといえる。だが、これらの刀工もそれぞれの派の伝統的な作風を継承するにとどまり、いわゆる相州伝といわれる特色ある作風を展開していくのは、国綱の子と伝える国光が出現してからである。国光は通称を新藤五といい、自らの作刀に〈鎌倉住人新藤五国光作〉と銘したものがのこる。鎌倉の地において鍛刀したことを明示した最も古い刀工であり』、『永仁元(一二九三)年から元亨四(一三二四)年までの年紀作が残っている。『その作風は、粟田口派の直刃を得意として、いちだんと地と刃の沸(にえ)が強くつき、刃中の金筋や砂流しなどの働きが豊富であって、ことに短刀の製作に秀で、太刀はきわめて少ない。その門人に行光と正宗がおり、正宗に至って相州伝の作風が完成された。この相州伝とは、硬軟の鉄を組み合わせて鍛えた板目に地景が入った美しい地肌と沸が厚くつき、金筋・稲妻・砂流しなどの働きが多い湾(のた)れの刃文に特色がある。正宗の作品は太刀・短刀ともに多いが、在銘作は少なく、京極家伝来の〈京極正宗〉、最上家伝来の〈大黒正宗〉、本庄家伝来の〈本庄正宗〉と号のある短刀、また尾張家伝来の名物〈不動正宗〉の短刀など数点にすぎない。正宗の子に貞宗がおり、父の作風を継いで上手であるが、比較的おだやかなものが多い。南北朝時代を代表するものに広光と秋広がおり、この両工はさらに沸を強調した皆焼(ひたつら)とよばれる刃文を創始した。室町時代の相州物は末相州物とよばれ、中でも綱広家は同名が江戸末期まで継承された。また後北条氏の城下町小田原で鍛刀した康国・康春らは小田原相州とよばれている』とある。]
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