『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 最明寺の舊跡
●最明寺の舊跡
最明寺の舊跡は。禪興寺といひ。福源山と號す。明月院の門を入り左の方なり。平時賴の創建せし所とす。東鑑に建長八年七月十七日宗尊将軍山内の最明寺に御參り。此精舍建立の後。始て御禮佛也。同年十一月廿三日。相州時賴最明寺にて落飾。法名覺了房道崇戒といふ。開山は道隆なり。昔は七堂伽藍ありしが。今は全く廢寺となれり。但永正六年九月管領(くわんれい)政氏より。建長寺玉隱に當寺再興の事に就て書を贈りし事あれは。其の衰微に歸せしは久しきことゝしられたり。
[やぶちゃん注:本文にある通り、原形の「最明寺」が廃れ、その後「禪興寺」となったがこれもその塔頭であった明月院を除いて廃寺となった。最明寺は北条時頼が出家の準備として建立した、極めて個人的な持仏堂乃至は禅定室のようなものであって、建立後も住持がいた形跡がなく、時頼の死後(弘長三(一二六三)年十一月二十二日)、すぐに廃絶してしまったものと考えられている。但し、その比定位置は現在は、従来唱えられていた名月谷奥の狭い範囲などではなく、名月谷入口から東慶寺門前に及ぶ山ノ内街道北側のかなり広範囲な一帯に寺域を保持していたと考えられている。その後、ほぼ同地域に北条時宗を開基、蘭渓道隆を開山として最明寺廃絶数年内の文永五(一二六八)年か翌年辺りに開創されたものが禅興寺であった。禅興寺はその後、一旦廃絶したが、永正九(一五八一)年に再興され、その後は天正九(一五八一)年頃までは続いたと推定されている。その後に再び衰微し、貞亨二(一六八五)年に完成した「新編鎌倉志卷三」には、昔は七堂伽藍が巍々と連なっていたが、今は仏殿しかなく、明月院の持分(もちぶん)となっていると記す状態で、結局、明治初期に禅興寺は廃絶、塔頭であった明月院のみが残ったのである(以下に、当該箇所を引いておく)。
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◯禪興寺〔附最明寺舊跡。〕 禪興寺(ぜんかうじ)は、福源山(ふくげんさん)と號す。淨智寺の向ひ、明月院の門を入りて左なり。關東十刹の第一也。平の時賴の建立、即ち最明寺(さいみやうじ)の舊跡なり。【東鑑】に、建長八年七月十七日、宗尊將軍、山の内の最明寺に御參り。此精舍建立の後、始めて御禮佛也。同年十一月廿三日、相州時賴、最明寺にて落飾、法名覺了房道崇(かくりやうばうだうそう)、戒師は宋の道隆(たうりう)とあり。當寺の開山も道隆なれども、無及德詮を第一祖とす。昔は七堂伽藍ありしと也。源の氏滿(うぢみつ)建立の時の堂塔幷に地圖、今明月院にあり。甚だ廣大なり。今は佛殿ばかりあり。明月院の持分なり。寺の僧の云く、上杉道合(だうがう)は、當時の檀那なり。明月院は、道合の菩提所なるゆへに、當寺を領するとなり。
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引用文中の「上杉道合」は上杉憲方(建武二(一三三五)年~応永元(一三九四)年)のこと。後掲される。
「建長八年」一二五六年。
「永正六年」一五〇九年。
「管領政氏」「政氏」は古河公方足利成氏の子二代目古河公方足利政氏(寛正三(一四六二)年~享禄四(一五三一)年)であるが、彼は公方でその補佐役の関東管領ではない。因み、この時の関東管領は上杉顕定である。なお、この頃は顕定との協調による、所謂、公方―管領体制の再構築の時期で、鎌倉支配の復活が見られる頃である。
「玉隱」臨済宗大覚派の僧で当時の建長寺住持であった玉隠英璵(ぎょくいんえいよ 永享四(一四三二)年~大永四(一五二四)年)。ウィキの「玉隠英璵」によれば、信濃国東部の武家滋野氏の出身と言われる。鎌倉禅興寺明月院の器庵僧璉(きあんそうれん)に学び、『その後継者として同院宗猷庵に居住した。応仁の乱後の鎌倉五山を代表する文人として知られ、漢詩や書に優れた。また、太田道灌と親交が厚く、道灌を通じて万里集九とも親しくした』(万里集九(ばんりしゅうく)の紀行文「梅花無尽蔵」は鎌倉の名紀行として知られる)。文明一八(一四八六)年に『万里集九が鎌倉を訪れた際には、玉隠の宗猷庵を宿所としている』。延徳三(一四九一)年に『行われた金沢文庫検査封鍼の際に立会人を務め』、明応七(一四九八)年には将軍足利義高によって建長寺百六十四世住持に任ぜられている。『後に明月院に退いて禅興寺の再建に尽くした。また、安房国の里見義豊を若年ながらその器量を高く評価して親交を深めた』とある。]
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