命をかへる歌 村山槐多
命をかへる歌
命をかへなさい、すつかりかへなさい
淫らな物、いやしい物、ものうい物、ひそかな物、恐しい物
そんな物に血の出る樣にしがみついて居た命を
すつかりかへておしまひなさい
お前の命がさつぱりと身綺麗になつたら
淸く、高く、まめに公明に樂しげになつたならば
どんなにいいのだらう
さつぱりとかへておしまひなさい
お前の命が生々と獸の樣に踊り上る爲めに
命をかへろとすすめましよう
×
お酒を呑みましよをぢさん
たばこを喫ひましようをばさん
とにかく面白い事樂しい事はみんなしましよう
遠慮なく致しましよう
その内に苦しい礎石を持つた「一生」のお家が
腐つてつぶれてしまひましよう
私達は笑つてそれを眺めましよう
×
お前の身體から來る要求のうちで
もしお前さんにやましい事、暗い事、こそこそした事をさせやう事物がありましたら
一生懸命に押へつけておしこみなさい、
これが節制と云ふ
樂しさにとつて何よりのお守りでしよう
×
私は自動車の樣に力強く走りましやう
子供の樣に笑ひましやう、うたひましや、遊びまましやう、
空の樣に物を見ましやう
始終悦こんで居ましやう、眼の前にある物を愛しましやう。
過去をすつかり忘れましやう、
未來の事ばかりを考へましやう、
世界は私にとつてまるで新しい物でしよう
その中へ眼をみはつてもぐり込みましやう
そうだ、そうだ、そうだ
何にもなかつた、何にもなかつた、
是れからだ、是れからだ、
×
私はごつんと頭をなぐられて
過去の記憶がすつかりなくなつてしまつた、
何んでしやう「是まで」と云ふのは
何んでしやう「二十二才」と云ふのは
私はまるで不思議な物ばかりの中をうろつく
眼であり耳であり鼻であり口であり
その外に何もありません
私は笑ひ私は悦ぶばかりです
何もかなしい事、苦しい事、じれつたい事はありません、
私はうれしさにてんてこまひするばかりです、
×
私がはじめて眼をさましました、
赤ん坊が始めて物を見た樣に、
そして立ち上りました、
私は大きな聲で申しましやう、
「これからだこれからだ」と
そして第一番に美しく澄んで深い靑天とくちつけましやう、
×
ある血の出る樣な炎天の眞晝である、汗をたらたら流して大曲の橋の上を電車にのりかへ樣と來かかれば江戸川の兩側に人が澤山立つて居る。
さてはまた太田畫伯の二人目かと胸をどきつかせて覗くと上手から黑い石の樣なものが浮きつ沈みつして流れて來るのだ、岸の人々は何だらうと驚異の眼を輝やかせて首をかしげて居る。
やがてその黑い物が橋の眞下に來たのをよくよく見れば一匹の大きなすつぽんが首を上げて泳いで行くのであつた。
「何だすつぽんか」と笑聲があつちこつちで起つた。
すつぼんは知らん顏をしてずんずん飯田橋の方へ泳いで行つた。
暑くるしい人間どもを冷笑する樣な眼つきで見上げながら悠々かんかんと、
[やぶちゃん注:最後の散文的な一行字数の長い連のみ、底本では版組が二字分上っている。
「命をかへろとすすめましよう」「たばこを喫ひましようをばさん」はママで、以下に使用される「ましよう」も総てママ(「ませう」が正しい。以下、略す)。
「とにかく面白い事樂しい事はみんなしましよう」以下末尾でリフレインされる「ましよう」も総てママ(同じく「ませう」が正しい。以下、略す)。
「こそこそした事をさせやう事物」の「させやう」はママ。
「私は自動車の樣に力強く走りましやう」の「ましやう」はママで、以下で繰り返し使用されるそれもママ(同じく「ませう」が正しい。以下、略す)。
「世界は私にとつてまるで新しい物でしよう」もママ(「でしやう」が正しい)。
「そうだ、そうだ、そうだ」はママ。
「何んでしやう」(二箇所)はママ。「「何でせう」が正しい)。
「暑くるしい人間どもを冷笑する樣な眼つきで見上げながら悠々かんかんと、」の読点はママ。
「大曲」「おほまがり(おおまがり)」。現在の東京都文京区水道一丁目の白鳥(しらとり)橋附近の古くからの地名。西から東に流れてきた神田川が、ここで大きなカーブを描いて南南東に方向を変えることに由来する。下流直近の「飯田橋」までは五百六十メートルほど。
「太田畫伯」不詳。識者の御教授を乞う。
「かんかんと」幾つも同音異義語があるが、槐多は当該の漢字を思い出せなかったから平仮名書きしたと仮定して前の「暑くるしい人間どもを冷笑する樣な眼つきで見上げ」ているという傲岸な態度と「悠々」とにマッチする形容動詞は、正直で気性が強いさま、はなはだ剛直にの意の「侃侃と」であろうと推理する。]