『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 光觸寺〔附熊野權現社〕
●光觸寺〔附熊野權現社〕
光觸寺は藤觸山と號す。時宗にて藤澤淸淨光寺(せうじやうくわうじ)の末寺なり。本堂に寺號の額を掛く〔後醍醐天皇の宸筆〕開山は一遍なり。本尊彌陀〔運慶作〕觀音〔安阿彌作〕勢至〔湛慶作〕を安す。此本尊を頰燒禰陀といふ。厨子は持氏寄進の物なりとぞ。堂中に尊氏氏滿滿兼持氏の牌あり。
熊野牡 村の鎭守とす。十二所の村名是に發起すと云ふべし。
[やぶちゃん注:寺伝によれば元は真言宗で一遍の感化により改宗したとする。最後に足利氏歴代の位牌(現存)の記載があるが、詳しい謂われは私は知らない。公方屋敷に近いので、特段、不思議とは思われない。この寺は私が鎌倉で最も偏愛する寺である。何十回訪れたか、もう思い出せない。ここは一つ、「新編鎌倉志」の原形である「鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 光觸寺」(私のブログ版電子テクスト)をリンクさせておこう。
「藤觸山」藤澤山が正しい。「新編鎌倉志卷之二」を無批判に引用した誤り。現在(当然、本誌刊行時も)は岩蔵山(がんぞうざん)であるが、「鎌倉市史 社寺編」の光触寺の項に『江戸初期には藤沢山といった』とある。因みにここに出る時宗総本山で本寺の「藤澤」の「淸淨光寺」、通称、遊行寺、正式名藤沢山(とうたくさん)無量光院清浄光寺も同山号である。
「運慶」(?~承応二(一二二三)年)鎌倉期の造仏界を代表する慶派の名匠。七条仏所の総帥。平安末から鎌倉初期に活躍した奈良の仏師康慶の子で、復古的傾向の中にも写実的で剛健な新しい作風の運慶様式を完成させた。記録に残るものでは安元二(一一七六)年の奈良円成寺(えんじょうじ)の大日如来像を初めとし、治承四(一一八〇)年の東大寺と興福寺焼亡後の復興造営に父康慶や一門の仏師らと参加、建久七(一一九六)年には大仏殿の虚空蔵菩薩像や持国天像を造立している。建仁三(一二〇三)年の東大寺総供養の際、運慶は僧網の極位である法印に任ぜられているが、これは奈良仏師系の仏師としては初めての快挙であった。
「安阿彌」仏師康慶の弟子快慶(生没年未詳)のこと。「安阿彌陀佛」という彼の号の略称。作品の多くに初期は仏師快慶・丹波講師・巧匠安阿弥陀仏、後には法橋快慶・法眼快慶などの署名を残す。東大寺の重源上人に帰依して安阿弥陀仏と号し,建久年間(一一九〇~一一九九年)の東大寺復興造仏に師康慶や兄弟弟子運慶を助けて正系仏師慶派一門の繁栄に大きな役割を果した。
「湛慶」承安三(一一七三)年~建長八(一二五六)年)仏師。運慶の長男。快慶dと同じく建久年間に東大寺再興の造仏事業に祖父康慶・父運慶を助け、また興福寺北円堂の造像にも名を連ねる。建暦三(一二一三)年に法勝寺塔造仏により法印に昇叙した(以上の三名の記載は主に「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。
「頰燒禰陀」「ほおやけみだ」(「頰燒阿禰陀」の略)と読む。伝承は「新編鎌倉志卷之二」や「鎌倉攬勝考卷之五」の「光觸寺」の項及び私の注、「鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 光觸寺」に詳述しているのでお読み戴きたい。私がいっとう好きな鎌倉の説話である。
「熊野牡」やはり私の好きな現在の十二所神社のこと(正しくは「じゅうにそう」であるが、私はつい、「じゅうにそ」と発音してしまう)。以下、ウィキの「熊野神社(鎌倉市)」の同神社の項(鎌倉市には現在でも複数の旧熊野社が現存する)から引く(アラビア数字を漢数字に代え、注記号及び改行を省略した)。『十二所の鎮守社。中世には三浦十二天(『吾妻鏡』)、近世期には十二天社(『新編相模国風土記稿』)・十二天明神社、または熊野十二所権現社とも称された。創建年代は定かではなく、弘安元年(一二七八年)との伝承があるが、寿永元年(一一八二年)八月十一日の条には北条政子の出産に際して、奉幣使が派遣されたとの記述が(『吾妻鏡』)、さらに八月十三日の条には十二所神社のほか諸社に源頼家誕生を祝って神馬を奉納した旨が記されている(『吾妻鏡』)ことなどから、遅くとも十二世紀末までには確立していたと見られる。古くは、現在の光触寺境内にあったと伝えられる(『新編相模国風土記稿』)が、天保九年(一八三八年)に現在地に再建された』(「新編鎌倉志卷之二」に『熊野の權現の小祠 堂の前にあり。鎭守なり』とある)『当時、別当寺院を務めていた明王院所蔵の記録『十二所権現社再建記』によると、この再建事業は、氏子三十余軒による土地・用材の寄進と土木開墾の奉仕によるものであるという。明治新政府の神仏分離政策や廃仏毀釈の動きにより現社名に改称され、一八三七年(明治六年)、十二所地区の鎮守として村社に列せられた』。
最後に。以下は「鎌倉攬勝考卷之五」に既に掲載済乍ら、一九七八年の三月――私が二十一歳の春――雪の光触寺(後者は正確には光触寺の奥の谷戸昌楽寺谷で撮影したもの)で私が撮った二枚の写真である。
[光触寺境内にて ©藪野直史]
[光触寺奥昌楽寺谷にて ©藪野直史]]
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