夢野久作 日記内詩歌集成(Ⅲ) 大正元(一九一二)年 (3)
十月八日 火曜
祖母君を看につどうみうち人
見れば昔を思ひ出でけり
秋の夜半湧き立つ蟲の聲ひろき
中に浮べる有明の月
みつむれば不氣味になりぬ秋の月
十月九日 水曜
◎放屁六歌仙(玉井の許より眞面目なる歌を送り來れる返し)
一、世の中にしかめて笑ふもの一ツ詰込みすぎし鐡砲の音。
二、野も山も黃色き色に染めなして空に澄ませる秋の夜の月。
三、吾ならで誰をか嗅がん夜着の中音をも香をもしる人ぞしる。
四、屁を放れば臭いものとはしり乍ら止むに止まれぬ大和魂
五、飯も茶も斯くなるものか腹の中本來空の佛とひと聲
六、心なき身にもあはれはしられけり音も香もなき秋の一ツ屁
[やぶちゃん注:「玉井」不詳。]
十月十日 木曜
〇秋日さす鎭守の森に百舌の聲
〇晝もなほ蟲のこゑきく頃となりぬ遠く隔る友をしぞ思ふ。
〇出で舟の行衞や何處しら雲の水に沈める秋の海原
〇鬼神も夫婦の仲も和らぐる屁にまさる歌あらじとぞ思ふ。
〇遠からば音にもきけや百舌鳥の聲金風百里武藏野の原
[やぶちゃん注:「金風」老婆心乍ら、「きんぷう」とは秋風のこと。五行説で秋は金に当たることに因る。]
十月十一日 金曜
〇遠からば音にもきけや都鳥金風百里武藏野の原
〇男の子らよ夢と思ふな天地の力の凝此身心をば
[やぶちゃん注:前歌は前日の改作であるが、語呂は良くなった代わりに陳腐化し、百舌の鋭いSEの方が遙かに好ましいと私は思う。後者下の句の読み方が私には分からない。]
十月二十日 日曜
長谷寺の鐘に枕をもたぐれば窓に棚引く朝やけの雲
見渡せば岬に寄する白波に夕陽くだくる秋の海原
山舟の行ヱや何處白雲の果に連る秋の海原
[やぶちゃん注:「山舟」意味不詳。]
十月二十六日 土曜
花も實も斯くなるものか冬木立とかや。祖母君の病に侍りて只夢の如く幻の如く折々の苦痛を訴え給ふ傍歌(小時の名)早くお母さん子供を取つておやり。晚飯も喰はず守りしよろうが。早く入れておやり。誰が命のお山も同じ事。さてふずに行かう。手を引いて。早く早く。皆早くお休み。夜遲くなると朝ねむい。何事となく平生の口癖を仰せらるをきゝて枯木の如き頰に熱の爲に紅をさし。瘠せたる手を擧げて何事か爲給はむとするを見れば生命とはかゝるものかと思ひて佛家の言のまことなるかと思はれつ。
田の中に棄てた大根の花盛り。
[やぶちゃん注:以上は二十六日の日記全文である。この四日前の十二十二日より二日ほど、小康状態にあった祖母が昏睡に陥った。二十四日朝には覚醒して会話もするようになったが、徐々に様態は悪化している雰囲気が日記から伝わってくる。この前日の二十五日 (金)の条には、『今日も昨日と同じ御容態なり。「便所に連れて行つて何卒、早く早く、拜むから。よう」藥口癖の如く仰せらる。朝の程より雨なり。秋も早や半過ぎたりと覺し。今年は正月元日に弟死に七月に父病み今月は祖母君の病篤し。御大喪乃木將軍の死何れにしても面白からぬ年なりき』(全文)と記している。祖母友子のそれは一種の譫言(うわごと)で、脳に障害をきたし始めている様子である。「傍歌(小時の名)」というのがよく分からないのであるが、夢野久作は祖父三郎平とこの祖母友子(厳密には継祖母)の寵愛を受けて育ってたのだが、久作の母は家風に合わないという、真相はよく分からない理由によって久作二歳の時に離縁させられている(婚姻の際にはこの祖母友子が懇請して彼女を貰っているにも拘わらずである)。この久作の実母は――高橋ホトリ――という。この実母の「ホトリ」と「傍歌」の「傍」には何か関係があるか? 因みに夢野久作の本名は直樹である。]
十月二十九日 火曜
衛祖母樣本日朝來軟便二回通薬物の效力を認む。脉迫八十。六度二三分。覺め給ふも眠り給ふも唯夢の如く幻の如く覺むるとも無くねむるとも無し。いと果敢なき心地す。
午前中奈良原君と海岸を散歩す。
祖母君の此頃の御詞譫言にはあれ常に可愛相にとか本統にねとか。早く助けておやりよとか一般に同情的なるが多し。曽子の言の眞なるを覺ゆ。
○古き世の古き光の姿して
うつろひて行く秋の夕暮
[やぶちゃん注:同日分日記全文。「脉迫」はママ。
「奈良原君」親友奈良原牛之助であろう。頭山満の同志で「玄洋社の殺人鬼」と称された奈良原到(いたる)の子である。
「曽子の言」「論語」の「泰伯」篇にある、『曾子言曰、「鳥之將死、其鳴也哀。人之將死、其言也善」。』(曾子言ひて曰く、「鳥の將に死なんとす、其の鳴くや、哀し。人の將に死なんとす、其の言ふや、善し」と。)を指す。]
十一月四日 月曜
○事毎に知らでは止まじ知りたらば遂げでは止まじ
○云はね共早しる人の來りけり手を携えて共に行かむと
○腹を立てるが倒れる始め。苦勞したのも水の泡。
○春は三月櫻の花を咲くも散らすも雨に風
○姫百合の花も実も無き心もて雨にしをるゝ姿やさしさ。
○裏表ないとは云へど妾が心單二重じや御座んせぬ。□□思がね真綿なら。〆て上げ度い主の首。(を綿にして着せて上げ度い絹布団。)
[やぶちゃん注:同日分日記全文。「じや」はママ。「□□」は底本の判読不能字。]
十一月二十日 水曜
歸りの汽車中にて
寂しさに留守を柿喰ふ女哉
⦅雪殘る山嶺を連ねて越後哉 東洋城⦆
悲しさや黄菊白菊祖母の墓
芭蕉塚誰が參ゐりけむ菊一枝
霜深き雜木林の野菊哉
眼覺むれば障子にうつる吊し柿
小春日や障子に座せし母の影
粥洗ふ土鍋にたかる目高哉
釣場まで川添ひ三里蘆の花
[やぶちゃん注:同日分全文。「松根東洋城」は漱石門下の俳人(俳号は本名の豊次郎を捩ったもの)。伝統的な品格を重んじ、幽玄・枯淡を好んだ。句に「春雨や王朝の詩タ今昔」等。久作より十一年上で、この当時は宮内庁の役人であった。芥川龍之介は彼をリスペクトしていた。
この前日の十一月九日(土)に祖母友子が逝去した(同日分日記は『此日午后九時祖母君逝き給ふ。』とあるのみ)。その前日の十一月八日(金)の日記には以下のようにある(全文)。
*
此夕祖母君の脉膊稍怪くどよめき始めぬ。東京に金策に出でし父上歸り給ひ折柄知らせによつて馳けつけし醫師竹内氏と共に皆枕頭に集まりぬ。祖母君は昏々として寐上に寢ね給ふ。御色愈白く御姿益々氣高く唯輕く喘ぎ給ふのみ。血と粘液を交えたる殆ど眞赤なる便臭なき便を排泄し給ふ。醫默して言はず。父も決然と起ちて次の間に退ぞきぬ。噫二十有四年父よりも母よりも吾を撫育し給ひし祖母上も遂にかくならせ給ふ。男乍ら胸迫りて得堪えず。
夜半人無き折竊に耳に口つけて強く低く御祖母さんと呼びしに半ば眼をあけて此方を見給ふ。手を捏るに握りかへし給へり。以て生涯の記念とす。
*
と記している。]
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