甲子夜話卷之一 43 了円翁、公家の事
43 了円翁、公家の事
予が侍妾の中に外山家の女ありき。其父もと公家なりしが、年若きとき身持ことならず、退身して隱遁せし人なり〔名了圓〕。予、其人と問答せし中に、奇と覺ゆることを一二記す。其一は、予云ふ、公家は貴きことなり。古より髮をも剃らず、總髮にて有るこそ目でたけれとかたりしかば、答に、いやいや左ようには無し。我等若輩の頃迄は、攝關などは格別、大納言の衆中武家傳奏などは勿論、我等祖父なども、皆々月代を剃居たり。還て總髮はめづらしき程にて、多は武家の通なりき。然を何れの頃より〔年代今忘〕、漸々に今の如くなりぬ。曾て今の風は復古なるべけれど、中古の風には非ずと。又其一は、刑罰はじめとか云て〔其名忘〕、毎年正月某日〔月日忘〕、何の處にか〔亦忘〕、罪人を率出して〔此罪人と云者は此ことばかりを勤として、常は何か家業をして居る者なり。例年此事行はるゝ時には、罪人の代として刑場に出ると云。眞の刑罰は總て武家にて行るゝゆゑ、是は朝廷の儀式計と聞ゆ〕、撿非違使正面に列し、其下にかの罪人をひき出づ。其外其事に與る者、皆々官服を着せり。罪人も亦烏帽子着服ありて、敷皮の上に坐す。時に側より罰文を讀めば、太刀執も同じく服色して、其後に囘り、太刀を揚て首を打つ。其太刀は刃にはあらで、木の〔其木忘〕、小杪(エダ)を執なり。罪人は太刀執の首を打とき、彼の冒し烏帽子を脱(ヌギ)て、敷皮の上に匿、其身は退去る時に、側の人其烏帽子を取りて、撿非違使にさゝげて事畢と云。成ほど世の俳優に類したれども、古政の遣れるなるべし。又其一は、了圓在勤のときは正四位式部少輔にて、主上〔桃園院〕の御側に侍る勤なりし。御坐所平常の朝淸の洒掃は、衣冠を着す。世の煤拂と云も歳末にはあり。此時も同く衣冠にてす。やはり俗間の如く、主上別殿に遷らせ玉ふ御跡にて、御坐所の御調度を悉く持出て、天井より御席までの塵坌を皆掃除するなり。又御遊のときは、是亦衣冠にて、御園地の船に從乘りて棹さす等のこともすると、語れり。これ九重のうへにては、固より斯ごときことなるべけれど、武家の心にて見れば殊なることのやうに思はる。
■やぶちゃんの呟き
「了円」不詳。
「侍妾」「じせふ(じしょう)」と読む。身分の高い人の傍にあって、その身の回りの世話をする侍女。「そばめ」とも当て読み出来るが、別に側室などではない。
「外山家」「とやまけ」。藤原氏の末裔とされる日野家の分流の一つで、江戸時代には公家の堂上家、明治時代以降は華族の子爵家となった家柄。参照したウィキの「外山家」によれば、『江戸時代中期に日野弘資の二男外山光顕を初代として成立した新しい日野家の分家。本家の日野家と同様に名家の家格。外山家から公卿になった者は五名あり』、権大納言一名、権中納言二名、非参議二名。『家禄は御蔵米三十石』。『五代当主の光実は日野家一門の烏丸家からの養子。また光実の養女補子(じつは光実の弟の町資補の娘)は徳川斉昭の生母。外山家からは同じ日野家の分流である北小路家と豊岡家に養子が出されている』。『九代当主光輔の代に明治維新を迎え、十二代当主英資の代に子爵に列した』。なお、『初代光顕の次男長澤資親は徳川綱吉に召し出され、高家長澤氏の初代とな』っているとある。この話の中でこの了円なる人物が「我等祖父なども、皆々月代を」剃っていた、と例示するのは、文脈から考えてもこのウィキの『外山家から公卿になった』五名の内の一人であった可能性がすこぶる高いと思われる。
「身持ことならず」「みもつことならず」で、身持ちが悪い、と同じで、身を持ち崩しての意。
「大納言の衆中武家傳奏などは」「大納言の衆(しふ)中(ちう)、武家傳奏などは」で――、正三位大納言の位に昇る方々の中でも武家伝奏職などは勿論――の意。
「月代」「さかやき」。
「還て」「かへつて」。却って。
「多は武家の通なりき」「おほくはぶけのとほりなりき」。
「然を」「しかるを」。
「年代今忘」「年代は今は忘れたり」。以下割注も同様に訓じていよう。
「刑罰はじめ」処罰シークエンスの再現劇を行うことで逆に実際の都への厄の侵入を払い去る、一種の逆説的な祝祭的予祝行事であるらしい。小学館の「日本国語大辞典」によれば、これは「着※(ちゃくだ)の政(まつりごと)」(「※」=「金」+「太」)と呼ばれる行事であることが分かった。「着※(ちゃくだ)」は鉄製の鎖で足をつなぐ枷)のことで、令制の罪人処理の一つで、囚獄司が徒役の罪人の足に足枷(あしかせ)をつけて三、四人を繋いだ状態で種種の使役に従事させることを言った(別名「ちゃくたい」とも)ものであるが、「着※(ちゃくだ)の政(まつりごと)」というのは平安時代に東西の市で陰暦五月及び十二月に行われた検非違使主催の行事であったという。それ『以来続けて行われ、江戸時代には囚人に擬した者を鞍馬村から召し、首に白布をかけ、鉄のあしかせをつけて、検非違使に笞(むち)で打つまねをさせた。軽罪の断罪をすませた意味であろうといわれる。ちゃくたいのまつりごと』とあって、「年中行事絵巻」の同行事の絵まで載っている。グーグル画像検索「年中行事絵巻 着 の政」のワード・フレーズで出るものが概ね同行事のそれであるようである。ご覧あれ。
「率出して」「ひきいだして」。
「此罪人と云者は此ことばかりを勤として」この「罪人」という役を演じる者は、専らこの「着※(ちゃくだ)の政(まつりごと)」に於いてこの罪人役のみを演じる事を勤めとしており。
「計」「ばかり」。ここは松浦が、間違っては困るので一言言っておくと、以下は公家の行う、本当の処刑ではない芝居に過ぎないものだ、という注意書きとして附言したものである。
「撿非違使」「けびゐし(けびいし)」。検非違使。
「與る」「あづかる(あずかる)」。
「敷皮」「しきがは(しきがわ)」。
「罰文」「ざいもん」と読んでおく。
「太刀執」「たちとり」。
「服色」「ふくいろ」。服の色であろう。
「揚て」「あげて」。
「小杪(エダ)」小枝。
「執なり」「とるなり」。
「首を打」「くびをうつ」。
「彼の」「かの」。
「冒し」「かぶりし」。
「匿」「かくし」。斬首した首のシンボル、厄の依代(よりしろ)である。
「退去る」「しりぞきさる」。
「事畢」「ことをはる」。
「成ほど世の俳優に類したれども」見るからに、今の世の俳優の演じる馬鹿馬鹿しい芝居に類したものではあるけれども。
「正四位式部少輔」「少輔」は「せういう(しょうゆう)」と読む。式部省(文官の人事考課・礼式及び選叙(叙位及び任官)・行賞を司り、宮内中高等職員の養成機関である大学寮を統括した、八省の内でも中務省に次いで重要な省とされた)の次官。
「桃園院」桃園天皇(寛保元(一七四一)年~宝暦一二(一七六二)年)在位は延享四(一七四七)年から没するまで。因みに「甲子夜話」は文政四(一八二一)年十一月の甲子の夜が起筆であるから、六十年以上は前の話である。
「御坐所」「おまし」と訓じておく。固有名詞としての「昼の御座(おまし)」である。
「朝淸の洒掃」「てうせいのさいさう」。の朝の清掃。
「煤拂」「すすはらひ」。
「持出て」「もちいでて」。持ち出して。
「塵坌」「じんぷん」。坌(フン)も塵(ちり)の意。
「從乘りて」「よりきたりて」と訓じておく。従ってともに乗船致いて。
「固より」「もとより」。
「斯ごとき」「かくのごとき」。
「武家の心にて見れば殊なることのやうに思はる」というのは、武家の立場から、天皇の警護や補佐・補助という観点からみると、その平常の執務室の清掃や池塘での舟遊びの際の船頭役など、特にしゃっちょこばって衣冠束帯なんぞという点で、静山、何となく危機管理としては違和感を感じたものであろう。