金色と紫色との循環せる眼 村山槐多
[やぶちゃん注:以下の散文詩三篇「金色と紫色との循環せる眼」「電氣燈の感覺(徴けき夢の中より)」「太古の舞姫」は「槐多の歌へる」には所収せず、本底本の続編で、翌大正一〇(一九二一)年に同じくアルスから刊行された山本路郎編「槐多の歌へる其後及び槐多の話」の「散文詩」パートで初めて日の目を見たものである。私は既に「やぶちゃん版村山槐多散文詩集」で「全集」版を電子化しているが、今回は初出「槐多の歌へる」版でゼロから再電子化した。彌生書房版「増補版 村山槐多全集」では「散文詩」パートに大正六(一九一七)年作の「童話『五つの夢』」(以前に述べたが、私はこれを散文詩としてではなく文字通り童話として採り、後日別に再電子化する予定である)の後に三篇纏めて投げ込まれてある。クレジットは一切なく、時期同定は難しく、軽々に云々することは渡しには出来ないが、「全集」年譜及び草野の「村山槐多」の年譜によれば、この明治四四(一九一一)年、京都府立第一中学校(現在の府立山城高等学校)三年当時、『強盗』『空の感』『魔羅』『銅貨』『孔雀石』『アルカロイド』『靑色廢園』『新生』といった回覧雑誌を相次いで作成し、創作作品を数多載せていた。「全集」版の同年の最後には本『全集所収の詩はもちろん、小説、戯曲などはここに発表されているものである』とある。されば、驚くべきことにこれらの散文詩は槐多満十五歳の時の作である可能性さえもあるということになるのである。取り敢えず、私の詩篇集成では、末期の詩篇の直前に置くことにする(私も実は「全集」編者の山本太郎氏と同じく、末期直前の詩篇は末期のそれとして詩篇類の最後に配したくなる部類の人間であるということは告白しておこう)。これも国立国会図書館近代デジタルライブラリーの当該書の画像を底本として視認した。]
金色と紫色との循環せる眼
吾が眼球は一日、異樣に美しき色の循環をうつし、吾が視神經は、しばらく鳴りどよむばかり光惚にとられた。この事を記す。
それは、佛國畫工グエスタフ、モロが畫面の怪しき光輝に比すべきばかり古き年代を經た、一ツの赤き、五重の塔が重たく建つた下に、吾經驗した事である。此塔は巧なる建築であつた。優雅な歡樂の絶えず行はれる町の中のある坂の上に立つてゐた。其美しさは印度の奇異な動物の相を具してゐたある非常な聖者が惰落した爲に變じた動物の形を具へて居た。仰ぎ見る者は誰人も、其の遊惰なる嚴格に戰慄せぬはなかつたのである。そして其の塔の眼には溢るゝばかりの慈愛があつた。そして塔の最下の室には、黃金の皮膚を有つた佛像が坐して居た。其の像は、扉の外から見えた。そして其の光は、覗き見る者の頭を下げさせる。
ある春の薄暮であつた。吾が塔の下にまたも立つて居たのは。吾は何の爲めに立つてゐたのかわからなかつた。だがこの塔を、はつきりと眼に滿たして、じつと立つて居る自らの嬉しさは、たとへる物もないのであつた。天地がこの、赤き、なつかしき五重の塔と吾とを、永劫の世の中からいづこかへかくしてしまう樣に感じた程であつた。
其時一人の痴愚なる坊主が美しい薄ら明りの中を、吾に近附いた。そして吾が耳に口をつけて言つた。
「これ八坂の塔え」
「あゝ」
吾は少しおどろいたが、其の美しい音聲に光惚となつた。
「この上に以前住んではつた」
誰だらう。
「誰が住んではつた」
坊主は眼を見張つたが、微かに呟いた。
「其れは人や」
この意味なき言葉が、其の時、水蒸氣の樣に、香水の香の樣に、消えて行く、たそがれの霧の中に、この坊主も又消え入つてしまつたのである。で後には塔と吾れとが、梵鐘に伏せられた樣な物凄さで殘つてゐた。何とも云れぬ美しい魂をうける春のたそがれの薄ら明りの中に。
はでやかに、遙か下に見える都は燈火を飾り出した。その上の空の靑さ。薄明るさに寶玉の星は輝きそめる。塔は全く暗く、影の重量の增すと共に重たくなつた。赤い塔は黑紫色のあでやかな塔となつた。吾が眼には餘りに、重たく、高く、大きくなつてしまつ
た。だが吾は塔を離れなかつた。其下をふらふらと廻つてゐた。この塔の圍を八回廻つた時、吾は一人の美しき女が來てゐるのを發見した。吾は八回とも無人であつたのに引き比べて大に驚ろいて、じつと注視した。其時である、吾が視神經が破壞せむとしたのは。
吾は一と目ですでに、此の女が色情狂であることを知つた、其肌は怪しき紅色を呈し、其の細帶一本で押へられた派手な衣裳は見るのも猥らがましく、其の殆んど露出した肉體に引きかづかれてゐるのである。一種の強い電光めいて光る其の白い左足を、股迄靂はし乍ら平然として此の女は上を仰ひでゐる。女は塔を打ち見守つてゐる。吾は其時思はず塔の上に飛び上つてぴつたと塔へ身を押しつけて、じつと、女を注視したのである。其の女の眼を、塔を寫つせる眼を注視したのである。
美しき女であつた。
其の面は孔雀石の如く靑色を帶びてゐたが、その唇は眞紅に輝いた。而してたそがれの濃い空氣で、其の東洋的な容貌は著しく神祕になつてゐた、殊に其の女は狂氣であつた故に。
其の女は、ぢつと、ぢつと、まるで石像の樣にぢつと立つてゐる。不思議相に見つめるは唯塔、この美しく物凄き塗のみなのである。
それで、吾も、ぢつと、ぢつと、其の女を見守つた。
自分の、うづくまれる處と女との距離が二間ばかり有るが、光の具合で、仰むいてゐる女の顏は、氣味惡るい程明確に吾が眼球に寫るのである。女の顏は丸くて豐麗である。吾は思はず、何處かで見た、博士スタインの發掘せるトルキスタンの佛像の寫眞を念頭に浮べた。其面はげに砂漠的であつた。埋れたる豪奢であつた。唇は斷え間なく薄明りの中で戰慄してゐるのが見える、そして其の眼を吾がじつと、じつと見下した時であつた、その上方に向ける仇めかしく好色に大なる眼に美しき色が環してゐるのが見えた。自分はびつくりした。
この狂女の眼の中に、無數の金色の微粒子がきらきらきらきらしてゐる。而して此の金のきらきらは、次第に紫色の微粒子にうつり行く。また其の微粒子は金に化する、かくて絶えまなく一の圓い軌道を作つて、金色と環色とのきらきらが、この女の眼の中で循環してゐるのである。おゝ、其の美麗さに、吾は實に氣も遠くなつた。氣も狂ほしくなつた、恰もスピサリスコープを覗く樣なこの美しさ、あでやかさ、不思議さは、わが理性を打ち亡ぼした。吾にはも早やこの狂女は佛であつた。偉大な美の聖者となつて、千萬の燭に照らされて、吾が前に現れたのである。吾は泣いた。泣いて戰慄した。忽ち金色と紫色との循環は急速になつた。そして、その色の循環は、この狂女の眼から全世界に廣ろがつた。此の赤き五重の塔も、美しき春のたそがれも、燈かざり初めし美しの都もすべて金色と紫色とに循環し出した。吾はうめいた。一聲高くうめいた。眞赤な血が全身に沸騰した。
吾はいきなり、この色情狂の女に飛びかゝつた。そして、其の眼球に指を突込んでえぐり出した。
美しく鋭き悲鳴が、この春の薄明りに傳はり、不思議な塔に反響した。だが吾が手には眞赤な血に染まつた、寶玉の樣な眼球がある。吾は嬉しさに叫んで、そしていきなり走り出した。この塔の下の町を、まつしぐらに京都の町へ走り下つた。金色と紫色とのきらきらを絶へまなく身に浴び乍ら、眞紅の眼球を右手の掌に載せて、まつしぐらに京都の美しい燈火の中に馳け入つたのである。
[やぶちゃん注:私はこの猟奇的幻想譚を頗る偏愛する。これは――この時代――この八坂の塔――かの呪われた詩人にして火達磨画狂槐多の作として日本幻想文学の傑作の一篇と言ってもよいと思っている。
「光惚」はママ。後も同じである。本注は略す。
「エグエスタフ・モロ」フランス象徴派の画家ギュスターヴ・モロー(Gustave Moreau 一八二六年~一八九八年)。
「五重の塔」以下で示される通り、通称「八坂の塔」、清水寺のごく近く、現在の京都市東山区清水八坂上町にある、観音霊場として知られる臨済宗建仁寺派霊応山法観寺(ほうかんじ)の五重塔。ウィキの「法観寺」によれば、永享一二(一四四〇)年に再建されたもの(伝承によれば五重塔は崇峻天皇五(五九二)年に聖徳太子が如意輪観音の夢告により建てたとされるが、実際の寺の創建は七世紀頃と推定される)で、高さ四十九メートル、『東寺、興福寺の五重塔に次ぐ高さをもつ純和様、本瓦葺の建築である。中心の礎石は創建当初のものが残っておりそのまま使われている。初層内部には大日如来を中心とする五智如来像を安置する。塔は重要文化財に指定されている』とある。
「吾經驗した事である」はママ。「全集」は「吾が經驗した事である」となっている。
「印度の奇異な動物の相を具してゐたある非常な聖者が惰落した爲に變じた動物」「惰落」はママ。この伝承を持つ動物は不学にして不詳である。インドで忌避される動物というと想起出来るのは悪魔の乗り物とされる水牛ぐらいである。識者の御教授を乞う。
「此の女は上を仰ひでゐる」の「仰ひで」はママ。
「不思議相に見つめるは唯塔、この美しく物凄き塗のみなのである」「相」「塗」はママ。「全集」は「不思議さうに見つめるは唯塔、この美しく物凄き塔のみなのである」となっている。「塗」は単なる誤植の可能性が高いが、暫くママとする。
「それで、吾も、ぢつと、ぢつと、其の女を見守つた」「全集」は「それで、吾も、じつと、其の女を見守つた」となっている。リフレインがないのは不審である。
「二間」三・六メートル。
「博士スタインの發掘せるトルキスタンの佛像」「博士スタイン」は中央アジアの探検調査で知られる、イギリスに帰化したハンガリー出身の探検家シュテイン・マールク・アウレール(Sir Marc Aurel Stein/Stein Márk Aurél 英語音を音写するとオーレル・スタイン 一八六二年~一九四三年)。参照したウィキの「オーレル・スタイン」によれば、彼は一九〇〇年(明治三十三年)に東トルキスタン地域へ第一回の探検旅行に出発、『新疆省を探検し、ホータン近郊のニヤ遺跡を発掘調査した』とあり、また、一九〇六年(明治三十九年)には第二回の『探検を行い、敦煌の仏画・仏典・古文書類、いわゆる敦煌文献を持ち帰った』とあるから、槐多の言うのは恐らく敦煌発掘のそれであろう。
「金色と環色とのきらきら」の「環色」はママ。「全集」は「環色」は「紫色」となっている。確かに誤植の可能性が強いとは思うが、暫くママとする。
「スピサリスコープ」スピンサリスコープ(Spinthariscope)のこと。α線が蛍光体に衝突した際に見られる蛍光(シンチレーション)の検出器である。科学匙史家中尾麻伊香博士の「核をめぐる科学文化」の「スピンサリスコープ」によれば、発明者はグロー放電(低圧気体中に於ける持続的放電現象)実験のためのクルックス管や、かのマイケル・ファラデーの名著「ロウソクの科学」(The Chemical History of a
Candle:一八六一年刊)編者としても知られるイギリスの化学者・物理学者サー・ウィリアム・クルックス(Sir William Crookes 一八三二年~一九一九年)で、彼は『硫化亜鉛スクリーンにラジウムの放射線(α線)をあてるとシンチレーションと呼ばれる蛍光を発する現象をレンズを通して観察できることを発見したこと、そしてこの蛍光の検出器(スピンサリスコープ)を考案』、一九〇三(明治三十六)年五月に『王立協会でスピンサリスコープを公開』、同月発行の『ケミカル・ニューズ』に報告を載せたとあり、『放射能現象を可視化したこの器具は、商業的に売りだされ、一般の人々が放射能現象を見ることを可能にし』たとある。まさか、こんな装置が槐多の文章に出て来るとは、お釈迦さまでも、ご存じあるメエ!
「忽ち金色と紫色との循環は急速になつた」の「忽ち」は底本では「忽ら」。誤植と断じて訂した。無論、「全集」も「忽ち」となっている。]
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