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2015/07/20

太古の舞姫 村山槐多 / 村山槐多詩篇電子化終了

これを以って、現在知られる村山槐多の詩篇に類するものはほぼ電子化注を完了したものと思われる。――残す一篇は明日にしよう――



  太古の舞姫

 

 或時自分はふと考へた。自分が此邑に住居を定めてから、何年經つた事になるだらう。自分は知らなかつた。

 そこで村民に尋ねて見た。高麗人の如く又銅像の如き一種神聖な、ぼんやりした容貌を有つた此村の民の一人に尋ねて見た。恰度この村民は奇怪な形をした農具を以て粗い田んぼをたがやして居る處であつた。

「お前は俺が何年此村にゐるのだか覺えてゐるか」

其農夫は自分の顏を見て禮をなして大聲に答へた。

「へえ、だんな、曇つた日では御座りませぬか」

 自分は驚いて其顏を見つめた。此農夫は俺を馬鹿にしたな。そこで自分はじつとその男を睨みつけた。

 その男は非常に驚いて自分を見つめて居た。その口は、恐怖に痙攣し、その眼はまたゝきもせず日輪の如く圓く大きかつた。自分は長い間この哀れな男を見つめて居た。成程曇つた日であつた。

 美くしい、かなしい、晝の靄がすつかり四方にかゝつて北の方に見える村の屋根は靑く輝きそのかなたに眞黑な金銅石の樣な山がそびえて居た。かくて二人化石した睨み合ひは私の突然の發聲にさまされた。

「はつはつは。お前は耳が遠かつた」

 此時この男は自分の口の動きを見てとつて叫んだ。

「だんな冷たい日では御座いませんか」

「さうぢや」

 私は大きく叫んだ。そして其男の石のわれ目の如く冷たく黑き耳穴に口を近づけて叫んだ。

「お前俺は何年此村に住んで居るのだ」

 男は甚だしく驚いた樣であつた。

 彼は遠い遠いまるで山麓の洞穴の奧で山頂の山犬のうなりを聞く樣な、又水中で打鳴らす樣な美しいさびた聲で叫んだ。

「だんなは、三千五百八十年此村に住んで御座る」

 男は此言葉を言ひ終ると一所にべたつと伏した。

 自分はおやと思つたが、此心配は空しかつた。男はもはや田の耕作を繼續して居た。狂氣の如く眼赤き牛は、濘猛なるうなりを上げ土塊は、はね上つて居る。自分は其男の肩が、駱駝の如く背むしであるのに氣がついた。しかし、何より自分は此男の此返答に戰慄した。

 そして激しい悲哀を感じつゝ自分の家にたどり着いた。

 自分の家の床は地を離るゝ事四尺である。自分が段々を上つて戸を開けた時中は暗黑であつた。そして中央の爐の中に、眞赤の火焰が一溜りゆらいで居た。

 自分はその火焰に手をかざして坐した。

 そして沈思した時に狂的な念が自分の頭の中で靜かに淋しく、何の音響をも立てず、それて居て石斧で切るが如き苦悶の叫びを上げるのを感じた。

 そして無窮の苦痛が一千年間の後ふと蘇生して更に一千年間の後に新らしからんが如くに感じた。

「三千五百八十年」自分はつぶやいた。

 火焰熱帶の惡神の舌の如くに奇異なる形をなして暗の中に一の薄明りをもたらした。自分はその薄明りをじつと眺めてゐた。然しその薄明りは悲哀の極であつた。心なき貧者が一千年間海岸の岩石の下に埋まつ居た。小舟を掘り出して燃す時の明に神祕なる煙りであらうと思はるゝ樣な此血色をした薄明りは全く永劫の悲哀であつた。

「この火焰は地軸から上つて居る」

 私は然しその淋しい小さい火焰と薄明りとを、じつと見つめて居た。

 私の眼には涙がみなぎつて居た。その涙は一千年前に死火山の腹から轉がり落ちた、重たいとび色の石を一千年間濕らし續けるに全たく充分であつた。

 更にその岩は今も尚落ちて居るであらう。その岩の落ちてある處に黑い薄い衣をまとうた女が瘦せこけて海の方を眺めてゐる。その女は風が吹くと骨も肉もない唯衣ばかりになつてひらひらとほの黑く舞ひ遊ぶ。その女の眼に寫る海の沖合の水の如き涙であつた。その海には一千年間雨と雪と、あられと、雹とが降らなかつた。水量が一厘も增さず一厘も減らなかつた。かかる類の古い涙が自分の眼に上り自分の眼はその涙に耽つた。

 自分は苦痛に耐へられなかつた。身體は冷めたく冷えた癖に腦は常世國の如く、熱帶性の蒸氣に閉されて居た。

 しかも外には日はかくれて居るのだらう。

 自分はまた、火焰を見つめて居た。この火は不思議な事には絶ゆる時がなかつた。永遠の火、永遠の薄明りであつた。

 自分はこの空氣の如き火を見つめて居て何年經つたらう。一千年も見つめて居たがまだ自分は倦む事を知らなかつた。火も絶ゆる時がなかつた。

 この火は全然悲哀の極みであつた。此火の前で此火のもたらす古びし薄明の助けに依りおぼろげながら、自分は、二千五百八十年の凡なる自分の行跡をたどり行つた。

 之は此村の生活であつた。此美くしい、悲しい歷史の火は自分の長々しい沈思愛玩中常に永久に變らなかつた。

 其後自分は立上つた。その時自分の心には苦痛が洪水の如く增大して肉は痛み傷ついて步行にも困難であつた。自分の眼は眞珠の如く深海の美を藏し、自分の皮膚は、鰐魚の皮の如く怖ろしかつた。

 自分は步いた、歩いて外へ出た、自分の家の床は大地より四尺高かつた。故に自分は段々を下りた。かくて自分は村を通つた。其時は最早日沒、自分の悲慘なる追憶は、二千五百年間を逆か上つて、二千五百八十年目にまで達して居たのであつた。

 此追憶を私は語る事は出來ぬ、それは伊布夜坂の如く世界と靈魂との境であるから自分はしかしこの日沒後遂に、二千五百八十年の最古の追憶に於て最も親しむ可き者の現存する場所を發見した。自分はそれでその場所を目的として步いたのである。

 自分が此村を過ぎた時、村民が九十九人出て來て自分に禮をした。おうそれが此村の全人數だつた。その中にはさきの、かの耳遠き男も居た。そして是等の九十九人の者共の中九十八人の眼玉は星の如くきらびやかに輝やいた。

 自分は是等の星の銀光の中を通過した時、こゝは天だなと思つた、それで一番あとに殘つた村長に訊いて見た。

 然し此の自分の出發した村は天の本體ではなかつた。

 天の如く超空氣の形を備へたものではなかつた。然し自分が、これからの道程は殆んど天であつた。其處には、N(窒素)及びO(酸素)の四容積及び一容積を以て組成されたる空氣は全然なかつた。自分は殆んどO(酸素)のみの中を突進したのである。

 古のギリシアの哲人が考へた如く、もし人間の體中が火焰を以て滿たされてあるのであつたならば、自分は殆んど爆發したのである。

 ああ、然し自分が村を離れた時、不思議にも曇れる田んぼの果てには一箇の月輪が上つたのである。

 此月は、不思議にも美なる、泣澤女命の眼の如き月であつた。

 此月が與ふる光は鋭どく細かに、方解石の大塊の如く、圍りに靑銀の怪しき、月しろを有つて居た。

 この月は少しく缺けて居た。自分はその月の方角に向つて進んだ。自分は冷たき潮流に、逆する大船の如く壯大なる考へが木綿を突破して風の走るが如く、苦しみ、悲しみを浸飾する樣な感じを、眼と腦との連絡に有つた。そして震へた。

 銀の繊維は顫動した。此顫動のうちに自分は八十里來た。時に、自分はいつしか峨々たる山嶽を上つて行つた。自分は月の姿を逸した。

 自分はかくてその山頂に立つた。此山には草木が一本も無かつた。誰が泣き枯したのであらう。それは或は、素戔雄命では無からうか。

 自分はまづ、自分の來し方を顧りみてみた。恐るべき哉、月はかくれて暗黑何物をも辨ぜぬ。自分は暗黑を拔く事、果して何尺の位置にあるであらう。

 山は實に暗黑に見えた、そしてその中に電光の如く灰白の岩石が明滅した。

 自分は再び前方を見下さねばならぬ。

 自分は、ゴルゴンの首を睨む想ひを以て冷めたき下界に對した。

 ああ、自分の前方には自分の場所があつた。

 此山の頂き卽ち、自分の立脚點は、はからざりき、大世界、有數の大絶壁の、頂きをなして居るのであつた。自分は恐怖に打たれた。見下した、はるかの下界に、暗夜にも拘らず、明に大なる圓形の湖水が見えた。その湖水は、幽靈族の神器の一たる神鏡の如く圓かつた。そして、そが有する透明は、神の荒魂を寫す樣な透明であつた。

 實に人間と、精靈界との區別をつける『恐怖』が象徴化された樣な透明を以て、それは實に靜に九萬九千九百立方尺以上の暗黑を透して輝いた湖水であつた。

 この湖水は此湖に急轉直下せる大絶壁を以て圍まれた物であつた。東西南北よりぶつかつた大山系の精の飮料水を貯へた物である。卽ち大井戸の底をなして居るのである。此外輪をなして居る大絶壁山はすべて火山性の彫刻的外觀を持つた山であつた。恐怖と暗影多き山であつた。

 月は存在すれど、曇つたために見えざる、怪しき假面の夜の暗黑は冷めたく大きく此外輪山にこもつて、其の最深處をアイヌの藝術の如くに點々と作つて居た。自分は月世界の寒風に立つた形であつた。自分の面には鉛色の産毛が凄然と一定の方向に向つて直立した。

 而して、全身は冷たかつた。自分は心臟の鼓動の如く戰慄した。而かし苦痛は心の底に引とつて愉快なる哀歌が心底をくつがへして起つた。自分は何時迄も大井戸の一のふちに立つて千丈の底なる、輝く湖水を見つめて居やうと考へた。

 が自分の大なる疑ひを何うするのだ。二千五百八十年の追憶は再び、コンドル、の如く、嶮しき凝視を續けて居る。

 自分はこの暗黑の大絶壁を是よりかの深處の水に下らねばなるまい。

 自分は凍つた手と足とをこの丑寅の奇蹟に掛けて下つて行つた。自分は足場足場を求めて下つて行つた。外氣は追々と神祕になつて行く。向ふ側の大絶壁の高さは異常に增して行く事がわかる。自分は殆んど、一千尺、も下つた時、恐る可き械會は自分の足を踏み外さしめた。

「ああ」此叫びは烈風の如くに自分を濘猛なる速度で以て湖上へ投げ込んだ。

 自分は斧と共に、パーシユースの靴に乘つた如く感じた。如何なる音響が水けむりに伴つたか、自分は槍の如く眞逆樣に水中に突入した。

 自分は大なる、うなり、と共に眼をみはつた時すでに自分は浮き上り行くのであつた。

 非常なる水の冷めたさ、更に自分を驚嘆せしめる事は水中は天の如く暗黑ではないのだ。

 幾千個のプリズム、レンズ、或は有史時代、幾萬年の努力が到達するであらう處の永劫の白晝は實に大なる層をなしたる透明に輝き、實に冷たく自分を呑んで居る。冷たさは非常だ。

 自分が浮き上るに要した時間は、此湖水の透明にして深き事は、身の毛もよだつものであつた。此湖水はどこを測つても、マンモス象の牙の沒するはおろか月をも沒するであらうと思はるゝ。しかも自分は泳ぎながら顏を水面につけたならば、夜に拘らず底の光景を明かに看取し得るのである。そして黑く長く滑らかなる石造の魚がかなしげに遊泳する處が見えるのである。此魚の動くのを見た時自分は惡魚を恐れはじめた。

 而して、その恐怖は『陸― 陸―』と自分に向つて絶叫した。

 自分は無暗にこの燐光の水の中を進んだ。自分の體には何時の間にか氷が張り氷柱が自分の脇に垂れて居る。此つらら、は鐵或は惡しき運命の如く重く自分を引いた。

 而かも程なく自分は唯一の上り得可き箇所を見つけた。そして這ひ上つた。

「ああ、俺の知覺神經は、大きくなつたぞ、ああ、胸は、二千五百八十年の俺の原始に返つた。」

 自分は氷をはがし氷柱を脇からはなした。どうも神祕な氷である。涙は心から傳つた。自分は神を念じた。其神は今雲間に居るのである。自分は不可思議なる、靈的運命の爲めに此不幸、或は幽幻なる湖岸にはるかに小さく慄へて居るのである。 (未完成)

 

 

[やぶちゃん注:既に述べた通り、クレジット・書誌情報なき擬似叙事的散文詩(伝奇小説の断片のようにも見える)。前の「電氣燈の感覺(徵けき夢の中より)」とは何か高い親和性が感じられるように思う。末尾にある『(未完成)』は入れ方から見て、編者のものではなく、槐多自身の書入れのように見える。太字は底本では傍点「ヽ」、太字下線は傍点「○」である。槐多の作品中でも私のすこぶる偏愛する一篇である。まさに文字通り、その天馬空を翔けるが如き、イリュージョンをどうか!

「かくて二人化石した睨み合ひは私の突然の發聲にさまされた」は「全集」では「かくて二人の化石した睨み合ひは私の突然の發聲にさまされた」となっている。

「三千五百八十年」はママ。「全集」は「二千五百八十年」に訂する(但し、次注参照)神武天皇即位紀元で「二千五百八十年」は西暦一九二〇年である。……因みに……槐多が死んだのは大正八(一九一九)年で――彼が雑司ヶ谷墓地に仮埋葬されたのは大正八(一九一九)年六月――であった……

『「三千五百八十年」自分はつぶやいた』ここは「全集」も同じで「三千五百八十年」のままである。因みに、神武天皇即位紀元で「三千五百八十年」は西暦二九二〇年である。……今年二〇一五年から何と九百五年後である……

「濘猛なるうなりを上げ」はママ。私は「獰猛」の誤字か誤植と思うが(通字ではない)、「全集」も珍しく「濘猛」のままであるので、例外的にママとした。ところが後でもう一回出る「濘猛」方は「全集」は「獰猛」と訂しているのである。何だか「全集」のやっている校訂が私にはよくわからない。阿呆臭いので後の方はもうこの注を略す。

「四尺」一・二メートル。

「全たく」はママ。「全集」も訂せず。

「自分は、二千五百八十年の凡なる自分の行跡をたどり行つた」ここ以降、ご覧の通り、「二千五百八十年」となっている。

「此追憶を私は語る事は出來ぬ、それは伊布夜坂の如く世界と靈魂との境であるから自分はしかしこの日沒後遂に、二千五百八十年の最古の追憶に於て最も親しむ可き者の現存する場所を發見した。」「全集」は「此追憶を私は語る事は出來ぬ、それは伊布夜坂の如く世界と靈魂との境であるから。自分はしかしこの日沒後遂に、二千五百八十年の最古の追憶に於て最も親しむ可き者の現存する場所を發見した。」と句点を打つ。「伊布夜坂」は日本神話に於ける死者の国である黄泉国と現世界の境である黄泉比良坂(よもつひらさか)の別名とされる。

「そして是等の九十九人の者共の中九十八人の眼玉は星の如くきらびやかに輝やいた」の「中」は底本では「百」である。これは明らかに意味が通じない。「全集」は「中」とする。ここは単純な誤植と断じ、例外的に「全集」を採用した。但し、この「星の如くきらびやかに輝やい」ていない一人は如何なる存在なのかは、文脈では遂に明らかにされない。一種の神への生贄とするために眼を潰した一年神主であろうか? 識者の御教授を乞うものではある

「古のギリシアの哲人が考へた如く、もし人間の體中が火焰を以て滿たされてあるのであつたなら」変化と闘争を万物の根源とし、火をその象徴とした万物流転説(パンタ・レイ) で知られるギリシアの自然哲学者ヘラクレイトスの生命観を指すか。ウィキの「ヘラクレイトス」に彼は、『燃焼は絶えざる変化であるが、常に一定量の油が消費され、一定の明るさを保ち、一定量の煤がたまるなど、変化と保存が同時進行する姿を示している。そしてこの火が万物のアルケーであり、水や他の物質は火から生ずると』考えたとある。

「泣澤女命」「なきさはめのみこと(なきさはめみこと)」或いは「なきさはめ(なきさはめ)」と訓じているか。ウィキの「ナキサワメ」に、『日本神話に登場する神。『古事記』では泣沢女神、『日本書紀』では啼沢女命と表記され、哭沢女命とも書かれる』。『神産みの段で、妻のイザナミを亡くし、その遺体にすがって泣いたイザナギの涙から化生した女神。泉の湧き水の精霊神とされる』。『神名の「ナキ」は「泣き」で、「サワ」は泣く様子の形容である。「メ」とあるので女神である』。『『古事記』では「香山(かぐやま)の畝尾の木の下に坐す神」と記される。『延喜式神名帳』には畝尾都多本神社(奈良県橿原市木之本町に現存。通称「哭沢神社」)が記載されており、啼沢女命が祀られている』とある。

「月しろ」月白・月代と書き、本来は月の出の直前に東の空が有意に白んで明るく見えることを言うが、ここでは出た月の持っている尋常ならざる妖しい輝きを言っているらしい。

「八十里」三百十四キロメートル。

「此山には草木が一本も無かつた。誰が泣き枯したのであらう。それは或は、素戔雄命では無からうか」「古事記」で、素戔雄命(すさのをのみこと)が「夜の食国」(よるのおすくに)或いは海原を治めるよう、父イサナキより命ぜられたにも拘わらず、母イサナミの死を子どものように嘆き悲しみ続けたあまり、「八拳須心前(やつかひげむねのさき)に至るまで啼きいさちき」、長い鬚が胸に垂れるほどの立派な青年となっても泣いてばかりいて、彼がかく泣き続けために、「靑山(あをやま)は枯山(からやま)の如く泣き枯らし、河海(かはうみ)は悉(ことごと)に泣き乾しき。 是(ここ)を以ちて惡しき神の聲は、狹蠅如(さばへな)す皆滿(みなみ)ち、萬(よろづ)の物の妖(わざわひ)悉(ことごと)に發(おこ)りき」、緑なす山はすっかり枯れ木の山ようにな――るまで泣き枯らす――ほど、川や海は悉く泣くことに使い果たして――その水を皆、乾し上げてしまった――ほど。かくして遂に、その悪しき神と化したそのおぞましき声は、夏の蠅のようにわんわんと世に充ち満ちて、ありとある、まがまがしき禍いが悉く起こった、とあるのを受けるものである。……スサノヲはまさに槐多そのもの、淋しがり屋の孤独な荒ぶる神である。……

「自分はまづ、自分の來し方を顧りみてみた」「全集」は「自分はまづ、自分の來し方を顧りみていた」となっている。頗る不審である。

「はからざりき」「全集」は「はかりざりき」となっている。頗る不審である。

「自分は恐怖に打たれた」底本は「自分の恐怖に打たれた」。誤植と断じ、「全集」に従い、例外的に「は」と訂した。

「九萬九千九百立方尺」単純換算すると、二万九千九百七十立方メートル。

「アイヌの藝術」恐らくはアイヌ文様、特に「モレウ」と呼ばれる渦巻き(川の流れの渦や流氷・風・木々に絡まる蔓から発想されたという)の曲線模様をイメージしているように私には思われる。

「千丈」三千メートル。

「見つめて居やう」はママ。

「丑寅の奇蹟」鬼門即ち最惡絶対の凶の状況の中にあって生ずるところの奇蹟的な展開の謂いであろう。

「一千尺」三百三メートル。

「パーシユースの靴」ペルセウス(Perseus)がゴルゴーン三姉妹の一人メドゥーサの首を獲るために身につけたものの一つである、ヘルメースの空を飛翔出来る翼の生えた黄金のサンダル「タラリア」のこと。]

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