『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 太刀洗水
●太刀洗水
鎌倉志には梶時か太刀を洗し所と記し。里俗は朝比奈と云傳ふ
[やぶちゃん注:「鎌倉志卷之八」の冒頭の「朝比奈切通」の中にある「上總介(かずさのすけ)石塔」の下り(独立項ではない)に出る。
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上總石塔 大切通と小切通との間、田の中にあり。上總の介、未だ考へず。平の廣常(ひろつね)が事歟(か)。廣常は、高望王九代孫にて、上總介高望(たかもち)王九代の孫に手、上總の常隆(つねたか)が子なり。武勇の名譽關東に振へり。坂東の八平氏、武林の八介(すけ)の其の一人也。賴朝卿に屬して、義兵を助け、良策戰功多し。後に讒言に因て、賴朝に疑はれ、壽永二年十二月に殺されたり。【愚管抄】に、介の八郎廣常を、梶原景時(かじはらかげとき)をして討せたり。景時、雙六(すごろく)打て、さりげなしにて、局を越へて、頓(やが)て頸(くび)をかいきりて、もてきたりけるとあり。後に廣常、謀叛にてあらざる事、支澄明白にて、賴朝これを殺したるを後悔し給ひたる事、【東鑑】に見へたり。鎌倉より切通(きりどをし)の坂へ登る左の方に、岩間(いはま)より涌出でる淸水あり。梶原が太刀洗水(たちあらひみづ)と名く。或は、平三景時、廣常を討ちし時、太刀を洗ふたる水と云ふ事歟。是も鎌倉五名水の一つなり。或は此邊に上總介廣常が宅ありつるか。【東鑑】に、賴朝卿、治承四年十二月十二日に、上總介廣常が宅より、大倉(をほくら)の新造の御亭に御移徙(わたまし)とあり。此邊よりの事歟。
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景時が讒言して頼朝の命で景時本人が暗殺した「平の廣常」とは房総平氏惣領家頭首にして東国最大の勢力を誇った上総介広常(?~寿永二(一一八四)年)のこと。謀殺については、幾つかの伝承が残る。以下、ウィキの「上総広常」より引用すると、「吾妻鏡」治承五(一一八一)年六月十九日の条などでは、石橋山で敗退した頼朝を千葉の浜で騎乗のまま出迎えたその時から、『頼朝配下の中で、飛び抜けて大きな兵力を有する広常は無礼な振る舞いが多く、頼朝に対して「公私共に三代の間、いまだその礼を為さず」と下馬の礼をとらず、また他の御家人に対しても横暴な態度で、頼朝から与えられた水干のことで岡崎義実と殴り合いの喧嘩に及びそうにもなったこともある』ことなどが遠因とされ、謀殺についても寿永二(一一八三)年十二月に『頼朝は広常が謀反を企てたとして、梶原景時に命じて、双六に興じていた最中に広常を謀殺させた。嫡男能常は自害し、上総氏は所領を没収された。この後、広常の鎧から願文が見つかったが、そこには謀反を思わせる文章はなく、頼朝の武運を祈る文書であったので、頼朝は広常を殺したことを後悔し、即座に千葉常胤預かりとなっていた一族を赦免した。しかしその広大な所領は千葉氏や三浦氏などに分配された後だったので、返還されることは無かったという。その赦免は当初より予定されていたことだろうというのが現在では大方の見方である』とする。更に慈円の「愚管抄」の巻六によれば、後に頼朝が初めて京に上洛した建久元(一一九〇)年のこと、後白河法皇との対面の中で広常誅殺の話に及んで、頼朝は『広常は「なぜ朝廷のことにばかり見苦しく気を遣うのか、我々がこうして坂東で活動しているのを、一体誰が命令などできるものですか」と言うのが常で、平氏政権を打倒することよりも、関東の自立を望んでいた為、殺させたと述べた事を記している』とある。ここで言う「関東の自立」とは所謂、同じ下総国佐倉を領した平将門のような新皇の名乗りによる完全な独立宣言を暗示させているのであろう。「吾妻鏡」では、謀殺直後の壽永三
(一一八四) 年一月小十七日の条に、以上の広常冤罪の証しとなる記事が示されている(以下、リンク先では当該記事の引用と書き下しがある。お時間のある方は是非お読みあれかし)。なお、「新編鎌倉志」には『賴朝卿、治承四年十二月十二日に、上總介廣常が宅より、大倉の新造の御亭に御移徙とあり。此邊よりの事歟』とあるが、私はこの十二所が個人的に大好きで、幾度となく訪れているのだが、幕府が出来る直近に、あの今でさえ山深い辺地に、かの豪将上総介広常の屋敷があったこと自体、かなり疑問に思っているのである。そもそも騙し討ちの太刀の血糊を洗った泉水が「梶原の太刀洗水」と称して後に名水となるというのも、実は穏やかならざる気がして解せない。広常邸跡と称する場所も古地図を見ると十二所の朝比奈切通の近くにあったりするのだが(三十数年前、私は半日山中を彷徨ってそれらしい高台に立ったこともある)、実際の感覚としては私には十二所に広常邸があったというのは信じ難いというのが本音である。
「里俗は朝比奈と云傳ふ」この文、今一つ、前文と上手く繋がっていない。思うにこれは、現在は専ら「梶原の太刀洗い水」としてしか称されていない湧水が、この当時、里俗では「朝比奈水(あさひなのみず/あさひなすい)」と呼称していた、そうしてそれはまさにこの切通し開鑿と名称に纏わるところの伝承である、和田義盛三男で剛腕で知られた朝夷奈(朝比奈)三郎義秀が一夜にして切り開いたという伝説に基づく呼称がこの湧水にあったのではなかろうかと推理するのである。この少し峠へ向かった先には「三郎滝」もある。但し、無論、本朝夷奈切通(実は「あさいなきりどおし」が本来は正しい)は、北条泰時の命で、仁治二(一二四一)年四月に着工されたもので、和田一族はとっくに滅んでいるのであって俗説の根拠は全くないのであるが(但し、巨魁漢伝承にありがちなように、義秀は乱中に遁走し、行方知れずとなったとされている)。]
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