『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 靑梅聖天
●靑梅聖天
靑梅聖天(あふめしやうてん)は。雪の下より巨福呂阪に登る左の小阪に在る小祠なり。因(よつ)て此阪を聖天阪といふ。實に幽徑(ゆうけい)にして。始て遊ふ者は路窮れりと爲す。此の小祠を青梅聖天といへるは。俗傳に鎌倉の將軍一日疾劇しく。時ならすして靑梅を欲す。諸所(しよしよ)を尋ぬるに此の祠前に於て俄かに靑梅の實のるを見る。乃ち之を將軍に奉(ほう)して。疾癒ぬ。故に名くと。
[やぶちゃん注:この記載は「新編鎌倉志卷之三」の「靑梅聖天」に拠るが、そこでは「あをむめのしやうてん」と読んでいる。現在の雪ノ下二丁目、旧巨福呂坂切通(現在は民家で行き止まりになっていて通行は不能であるが、江戸末期まではこの旧切通)の傍らに立つが、あまり知られているとは言えない。南北朝期の作とされる双身歓喜天を祀る(私は残念ながら写真のみで実見したことはない。現在は七月十六日の例祭時以外は国宝館寄託か? アンドエム氏のブログ「恵比寿ゲイバー★アンドエムのブログ」の「鎌倉×密教展」で後姿の写真が見られる。かなり人型に近いそれである(一般の歓喜天は人身象頭)はことは分かるものの、やはり鼻は象である)。白井永二編「鎌倉事典」によれば、この他に将軍地蔵を祀り、境内には別に稲荷社があってこれは丸山稲荷と呼称するとある。なお、私はかつて「新編鎌倉志卷一」の鶴岡八幡宮の中の「相承院」の条に出る、「押手(おして)の聖天」とこの歓喜天は同一物ではないかと考えたが(その時のままに注は残してある)、今回、今一度よく調べて見たところ、廃仏毀釈によって破砕された相承院のあった位置はこの青梅聖天からは現在の県道二十一号の小袋坂の下を挟んで二百メートル以上離れている点、ここに示されているように青梅聖天が独自の伝承をかなり古くから持っていた点などから考えて、この二つの聖天像は全くの別物と判断するに至ったことを言い添えておく。]