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2015/07/28

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」  東慶寺

    ●東慶寺

東慶寺は松岡山と號す。比丘尼寺(びくにでら)にて。臨濟宗なり。北條時宗の室(しつ)秋田氏の開創せる所。秋田氏は義景の女(むすめ)にして。北條貞時の母なり。潮音院覺山志道和尚と號す。時宗は弘安七年四月四日に卒す。明年落飾して當寺を建立す。十月九日開山忌を行ふ。

本寺には明治以前一種の法規(はふき)あり。卽ち良人の邪見無道(じやけんぶだう)なる爲め。薄命に陷れる婦女。本尊に驅入れは。其の事情を糺し。其の次第に因り。夫婦の赤繩を別離し二十四ケ月間入院せしむること是(これ)なり。故に昔時(せきじ)は出入を誰何し。男子を禁せり。

延享二年十月。東慶寺役人村上嘉太夫か奉行所に差出せる同寺の由來書に云。

[やぶちゃん注:以下は底本では全体が一字下げ。]

鎌倉東慶寺開山覺山至道和尚は。北條平時宗室秋田城之介義景息女にて御坐候。平貞時へ覺山和尚願候は。乍出家息女子之事に候は。利益之種も無御座候。就夫女と申候は。不法の夫にも身を任せ候事も尋常に候得共。女之狹き心にては。風と邪之思立にて自殺などいたし候ものの有之事に候間。三ケ年之間當寺に相抱。何卒緣切候て。身輕に成候寺法相願候由。依之貞時被

天聽に。其意に任せられ候。其後第五世用堂和尚は。後醍醐帝之姫宮にて。此節御願被成。緣切女三ケ年辛勞成勤不便の儀に思召。二十四ケ月を限に被レ成候得は。出入三年に有之候故。月數御改被成候由。其後第二十世秀泰〔他書には天秀となり〕和尚は正二位右大臣豐臣秀賴公之姫君にて御座候。〔下略〕

かゝる寺法なれは。學者には議論甚だ多かりし。明治四年に至り官(くわん)之(これ)を禁せり。

山門には東慶總持禪寺の額。佛殿には祈禱の額を掲(かゝ)け。金銅のの釋迦、文殊、普賢の三像を安置す。寛永十一年十月駿河忠長卿の舊館を移し賜ひて建立せしよし。方丈脇寮等皆然り。

皇女用堂尼王〔應永三年丙子八月八日入寂〕の御墓(おんはか)。天秀尼公〔正保二年乙酉二月七日示寂〕の墓碑は。總て寺後の山麓に在り。皇女の御墓は。岩窟内にて。東西三間南北五間。木柵(もくさく)を廻らし。前面に鳥居を建つ。現に宮内省の管轄に屬せり。

[やぶちゃん注:「秋田氏」秋田城介(じょうのすけ)安達義景(承元四(一二一〇年~建長五(一二五三)年)のこと。頼朝流人時代からの側近であった安達盛長の孫に当たり、後に幕閣で権勢を振るうも、霜月騒動で内管領平頼綱によって滅ぼされる安達泰盛の父である(但し、安達氏は後に復権する。次注参照)。

「潮音院覺山志道和尚」覚山尼(かくさんに 建長四(一二五二)年~徳治元(千三百六)年)。北条時宗正室で母は北条時房娘。堀内殿・松岡殿とも呼ばれた(ここに出るように父の職名で「秋田氏」と呼ばれることは普通はないと思われる)。以下、ウィキの「覚山尼」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した。下線やぶちゃん)、『父義景が出生の翌年に死去したため、二十一歳離れた異母兄泰盛の猶子として養育された。鎌倉甘縄安達邸で育ち、弘長元年(一二六一年)に十歳で北条得宗家の嫡子で十一歳の時宗に嫁ぎ、安達氏と得宗家の縁を結ぶ。夫婦仲は、時宗の帰依した無学祖元の証言などから仲睦まかったとされ、文永八年(一二七一年)十二月、二十歳で嫡男・貞時を出産。日蓮の回想によれば、時宗は嫡子誕生の喜びから日蓮を恩赦して死一等を減じ、流罪に減罪したと言われる。また、時宗の影響で禅も行っている。建治三年(一二七七年)には流産をしている』。『弘安七年(一二八四年)四月、病床にあった時宗は無学祖元を導師として禅興寺で落髪(出家)たとき、共に落髪付衣し、覚山志道大姉と安名した。時宗は三十四歳で死去し、時宗の死後息子貞時が執権に就任、兄泰盛が幕政を主導。晩年は仏事につとめ、父義景、兄泰盛の後を受けて遠江国笠原荘を領している。弘安八年(一二八五年)に、内管領平頼綱の讒言を信じた執権貞時が、泰盛を始めとする安達氏一族を誅殺する(霜月騒動)。この事件の際、安達一族の子供達を庇護したと見られ、その後の安達氏の勢力回復には覚山尼の存在が大きかったと思われる。同年には貞時の承認を得て鎌倉松ヶ岡に東慶寺を建立。さらに夫の暴力などに苦しむ女性を救済する政策を行なったと言われ、直接史料は無いが、これが元で東慶寺は縁切寺(駆込寺、駆入寺とも)となったと言われている。五十五歳で死去』とある。

「弘安七年」一二八四年。時宗の死因は結核或いは心臓病とも言われるが、やはり文永・弘安の役の激務が祟っていると言える。

「延享二年十月」一七四五年。同年九月二十五日に第八代将軍徳川吉宗は将軍職を長男家重に譲っている。

「東慶寺役人村上嘉太夫か奉行所に差出せる同寺の由來書」以下、我流で書き下しておく。

   *

鎌倉東慶寺開山覺山至道和尚は、北條平(たいらの)時宗室、秋田城之介義景息女にて御坐候ふ。平貞時へ覺山和尚、願ひ候は、

「出家乍ら、息女子の事に候はば、利益の種も御座無く候ふ。夫(そ)れ就きて女と申し候はば、不法の夫にも身を任せ候ふ事も尋常に候得(さふらえ)ども、女の狹き心にては、風(ふ)と邪(よこしま)の思ひ立ちにて、自殺などいたし候ものの之れ有る事に候ふ間(あひだ)、三ケ年の間、當寺に相ひ抱へ、何卒、緣切り候ふて、身輕に成し候ふ寺法、相ひ願ひ候ふ。」

由。之に依つて、貞時、天聽に經られ、其の意に任せられ候ふ。其の後、第五世用堂和尚は、後醍醐帝の姫宮にて。此の節、御願成られ、緣切女の三ケ年の辛勞成勤、不便の儀に思し召し、二十四ケ月を限りに成らせられ候得ば、出入り三年に之れ有り候ふ故、月數、御改め成られ候ふ由。其の後、第二十世秀泰〔他書には天秀となり〕和尚は正二位右大臣豐臣秀賴公之の姫君にて御座候。〔下略。〕

   *

この「東慶寺役人村上嘉太夫」なる者が寺社「奉行」提出したという、東慶寺の『寺例書』(「てらためしがき」と訓ずるか)はかなり知られたもので、そこにはここに出るように開山以来の「同寺の由來」が書かれてある。これについて「鎌倉市史 社寺編」の同寺に条では、『疑問のあるところもあるものであるが』と前置きしつつも、この文書には『はじめは駈入の際離縁状を差出させず当山に入れ、二十四ケ月相勤めれば縁を切れることになっていたが、下山した女に元の夫が難儀を申しかけ、出入に及んだので、寺社奉行永井伊賀守直敬』『の命で、縁切証文及び親元の証文を整えるようになったとあるが、長井直敬は元禄七年(一六九四)より宝永六年(一七〇九)の間寺社奉行であるところからみて、この時代にはすでに縁切寺法が実施されていたことを知ることができる』とある。なお、この永井直敬(なおひろ 寛文四(一六六四)年~正徳元(一七一一)年)はこの寺社奉行当時の元禄一四(一七〇一)年九月一日、かの浅野長矩改易後を受けて下野烏山藩主から播磨赤穂藩主と移封された(その後さらに信濃飯山藩主・武蔵岩槻藩初代藩主に移封)、とウィキの「永井直敬」にある。この縁切寺法についてはウィキの「東慶寺」が殊の外詳しく、この文書の期間の詳細はそこの「縁切寺三年勤の背景」などを参照されることをお勧めする。

「第二十世秀泰〔他書には天秀となり〕和尚は正二位右大臣豐臣秀賴公之姫君」天秀尼(慶長一四(一六〇九)年~正保二(一六四五)年)豊臣秀頼娘で千姫の養女であるあ、母の名も出家前の俗名も不明で、参照したウィキの「天秀尼」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、『記録に初めて表れたのは大阪城落城直後でありそれ以前には』ないとし、『同時代史料としては、元和二年(一六一六年)十月十八日にイギリス商館長リチャード・コックスが松が岡を剃髪した女性の尼寺として紹介し、「秀頼様の幼い娘がこの僧院で尼となってわずかにその生命を保っている」と書いている』。『出家の時期は先の東慶寺の由来書に「薙染し瓊山尼(けいざんに)の弟子となる。時に八歳」とあり、また霊牌(位牌)の裏に「正二位左大臣豊臣秀頼公息女 依 東照大神君之命入当山薙染干時八歳 正保二年乙酉二月七日示寂」とある。このうち「薙染」(ちせん)が「仏門にはいる、出家する」という意味である。従って、出家は大坂落城の翌年の元和二年、東慶寺入寺とほぼ同時期となる。出家後の名は天』であった(下線やぶちゃん)。『天秀尼は東慶寺入山から長ずるまでは十九世瓊山尼の教えを受けていただろうが、塔銘によれば円覚寺黄梅院の古帆周信に参禅したとある。古帆周信は中国臨済宗楊岐派の幻住中峰禅師に始まる幻住派である』。『また沢庵宗彭に参禅しようとしていたことが、沢庵の書状により明らかになっている。書状であるので八月二十九日と日付はあるが、年は書かれていない。沢庵は寛永十六年(一六三九年)より江戸に戻り、徳川家光によって創建された萬松山東海寺の住持となっている。東慶寺の住職だった井上禅定は、天秀尼が参禅していた古帆周信が寛永十八年(一六四二年)二月一日に示寂しているので、沢庵に参禅しようとしたのはそのあとではないかとする』。『東慶寺は縁切寺法をもつ縁切寺(駆込寺)として有名であるが、江戸時代に幕府から縁切寺法を認められていたのはここ東慶寺と群馬(旧上野国新田郷)の満徳寺だけであり両方とも千姫所縁である。寺の伝承では、天秀尼入寺の際、家康に文で「なにか願いはあるか」と問われて「開山よりの御寺法を断絶しないようにしていただければ」と答え、それで同寺の寺法は「権現様御声懸かり」となったとある』。満で云えば未だ六、七歳の『子供と家康のやりとりが本当にあったのかは確認出来ないが、江戸時代を通じて寺社奉行に提出する寺例書や訴訟文書ではこの「権現様御声懸かり」の経緯を述べて寺法擁護の最大の武器としたこと、実際に東慶寺の寺法に幕府の後ろ盾があったことは確かである。縁切寺法と一般にはいわれるが夫婦の離婚にだけ関わるものではなく、中世以来のアジールの性格を持つ』とある。

「明治四年」一八七一年。この時の様子がウィキの「東慶寺」に「尼寺・縁切寺法の終焉」として以下のように描出されてある(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『明治維新により縁切寺法は廃止され、寺領からの年貢を失い、二階堂に山林を残すのみとなるがそれも大半は横領される。最後の院代順荘尼を描いた一八九七年(明治30年)の小説には「維持の方法立かぬれば徒弟たりし多くの尼法師、留置の婦人、被官残らず一時に解放し寺内の法務は本山円覚寺山内の役僧に委ね現住職法孝老尼女は別房に退隠して年老いたる婢女一人と手飼の雌猫一疋とを相手に…総門山門はもとより方丈脇寮諸社なと朽廃にまかせ修繕の途なきはおおかた取りこぼち薪として一片の姻と化し」とある。順荘法孝尼は一九〇二年(明治三十五年)七十八歳で死去し、尼寺東慶寺は幕を閉じる。そういう「修繕の途なき」状態の中で仏殿が原三溪に引き取られる。なお、明治十年代には庫裡が山内村の小学校になった。これが現在の小坂小学校の前身のひとつであ』ったとある。

「寛永十一年」一六三四年。

「駿河忠長卿」江戸幕府第二代将軍徳川秀忠三男で家康の孫である大名徳川忠長(慶長一一(一六〇六)年~寛永一〇(一六三四)年)。極位極官が従二位大納言で領地が主に駿河国であったことから通称を「駿河大納言」と通称した。父と母江(ごう)の寵愛を一身に受け、実兄家光をさしおいて世子に擬せられたが実現せず、第三代将軍となった徳川家光との確執から寛永八(一六三一)年には甲斐に蟄居させられ、次いで上野高崎に幽閉された上、二年後の寛永十年十二月六日(グレゴリオ暦一六三四年一月五日)に二十八歳で自害させられた。ここに出る移築は翌年であるが、その仏殿は現在のものではなく、当該のそれは現在、その仏殿は明治四〇(一九〇七)年に横浜の三溪園に移築され、重要文化財として現存する。

「皇女用堂尼王〔應永三年丙子八月八日入寂〕」東慶寺第五世とする。後醍醐天皇皇女で護良親王の姉で弟の菩提を弔うために入庵したとする。「應永三年」は一三九六年。

「東西三間南北五間」東西五・四五メートル、南北九・〇九メートル。

「現に宮内省の管轄に屬せり」現在も同様。]

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