『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 山之内
●山之内
山之内は。粟船(あはふね)、本郷、倉田、戸塚の邊まてをいふ。里人(さとびと)は東は建長寺。西は圓覺寺の西野の道端(みちばた)。川邊に榎木(ゑのき)あるを境とすといへり。東鑑に建久三年三月二十日。山内に於て百ケ日の温室(ふろや)あり。往返(わうへん)の諸人(しよにん)幷に土民等浴(よく)すへきの由。札を路頭に立らる。後白河法皇御追福の爲め也とあり。又昔し首藤(しゆとう)刑部丞俊通始てこゝに居住し。山内を家號とす。今猶ほ其の第址あり
[やぶちゃん注:「鎌倉攬勝考卷之一」の「山ノ内村」より引用する。下線やぶちゃん。
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山ノ内村[小坂郷山ノ内庄] 巨福呂坂邊より巨福呂谷村迄の間をいふ。むかしは離山粟船村邊は勿論、吉田本郷邊迄も山ノ内なりし事ものに見へたり。今は圓覺寺總門外より西續き、巨福呂谷村を堺とする由。往古は此地に寺はなく、皆武家屋敷と村民なりしかど、今は悉く寺院内に入、上杉管領屋敷跡といふも寺地に屬す。村地とする所は僅なり。治承四年十月六日、右大將家は武藏路よ鎌倉へ着御し給ひ、同九日、大庭平太郎景能を奉行として山の内の知家事(ちけじ)兼通が宅を移して、假の御亭に營作せらるゝとあり。又山ノ内を氏に稱するものは此地の産なり建久三年三月廿日、後白河法皇の御追福の爲に、俊兼奉行し、山ノ内の地にして百ケ日の間浴室を施行せられ、往還の諸人並村民等浴すべき由、路頭に札を建られしとあり。其地今は知べからず。建仁二年十二月十九日、賴家卿山ノ内の荘へ鷹場御覽に出給ふとあり。仁治元年十月十九日、前武州[泰時]の沙汰として、山ノ内の路を造らる。この路頭嶮難にして往還の煩ひあるに依てなり。いまも道路狹く、南の方は山に接し、北の方の路傍、建長寺境内より流出る水路有て嶮隘なる道路なり。建暦三年和田亂の時、一味の山ノ内の人々廿人とあり。其人々没收せられし地を同年に北條義時に賜ふとあれば、是より北條氏が領所と成けるゆへ、泰時に至て粟船村に常樂寺を基立し、又時賴は此地に別業を設け、建長寺、禪興寺を建立し、其子時宗圓覺寺を開基し、時賴の孫師時は浄智寺を創建し、又時宗が妻室の禪尼は松ケ岡の東慶寺を剏建せり。是所領の地なるゆへ數ケ寺院を造りし事なり。
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引用文中の「知家事」は鎌倉幕府の政所の職名。案主(あんじゅ・あんず:文書・記録等の作成保管に当たった職員。)とともに事務を分掌した。「浴室」はかつて主に寺院が貧民や病者を対象として行った施浴の施設。寺内の浴室を開放したり、仮設の施設を設けて行った。この時のものは一種の薬草を燻じた蒸し風呂様のものであったようである。
以下、記事元である「吾妻鏡」建久三(一一九二)年三月二十日の条の当該記事も引いておく。
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廿日壬辰。於山内有百ケ日温室。往反諸人幷土民等可浴之由。被立札於路頭。是又爲 法皇御追福也。俊兼奉行之。今日御分也云々。平民部丞。堀藤次等沙汰之。以百人被結番。雜色十人在此内云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
廿日壬辰(みづのえたつ)。山内に於いて百ケ日の温室(うんじつ)有り。往反の諸人幷びに土民等、浴すべきの由、札を路頭に立てらる。是れ又、法皇御追福の爲なり。俊兼、之れを奉行す。今日(こんにち)の御分(ごぶん)なりと云々。
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「今日の御分なり」とはこれが頼朝自身の後白河法皇追福の功徳の分として民に施された期日限定の入浴場であったことの謂いと思われる。]
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