氷の涯 夢野久作 (21)――キリ前――
「……わからないかい……」
「……わからないわ」
「今までの出來事をズーツと一遍通り考へ直して御覽……記憶(おぼ)えて居るだらう。何度も話したんだから……」
「ええ。だけど……わからないわ。……イクラ考へてもわからないわ。アタマが何樣(どう)かしてんのよ今夜は……」
「……十梨(となし)が、星黑から分けて貰つた官金の一部だと云つて、憲兵の前に提出した十六枚の二十圓札の話をしたらう」
「ええ。聞いたわ。その二十圓札つて云ふのは、十梨が星黑を殺した時に奪ひ取つた星黑の給料だつたに違ひ無いつてアンタがさう云つたわ。その中の一枚の裏つ側(かは)に、星黑がつけた赤インキの飛沫(とばつちり)の形をアンタがチヤント見覺えて居たつて云ふ話でせう。象(ざう)のお尻に太陽が光つてゐる形になつて居たつて云ふ……だけどそれがドウかしたの……」
「ウン。その二十圓札の番號と、朝鮮銀行の支店に控へて有る札番號と引合はせれあ、十五萬圓の一部ぢや無いことが、すぐにわかる筈だらう。十梨が云つた事がミンナ噓だつたつて事やなんかも一緒に……」
「……まあツ……どうして今まで氣が付かなかつたんでせう。あたし馬鹿ね。ヨツポド……」
「ナアニ。みんな馬鹿なんだよ。今から考へると、これは十梨のオツチヨコチヨイが、あんまり話を上手に作らう作らうと思つて焦躁(あせ)り過ぎた爲に出來た大手拔(おほてぬ)かりだね。多分、十五萬圓を手附かずのまゝソツクリ銀月の女將に預け込んで、自分一人で星黑の死骸を始末しに行つて居るうちに、十梨が勝手にヒネリ出した淺知惠に違ひ無いと思ふんだ。銀月の女將が一枚這入つてりやあ、そんなヘマなセリフを附ける氣遣ひは無いからね。……ところが、その時には當の本人の十梨も、相手の憲兵も、陪審員の僕も、そのほかの連中(れんぢう)も一人として氣が付かなかつたんだから妙だね」
「……やつぱり運よ。物事つてソンナもんよ……だけどその話は、そんな時に云ひ出すよりも、今になつてアンタから左樣(さう)云つて遣つた方が利き目がありはしない……」
「それあさうさ。しかし……其の二十圓札がズウツと憲兵隊に保管して在ればつて云ふ話だからね。十梨が放免された處から見ると、その二十圓はトツクの昔に沒收されちやつたらうよ」
「……そりやあ左樣(さう)ね……」
ニーナは何かしら外(ほか)の事を考へて居るらしく形式的にうなづいた。
その顏を見い見い僕は淋しく笑つた。
「お前と一緒に逃げたお蔭で、とうとう結末が付いちやつたね」
ニーナはプイツと拗(す)ねたやうな恰好でペーチカの方に向き直つた。さうして思ひ出したやうに、梨の喰(く)ひさしとナイフを頭の上に高々とさし上げて、
「……あアあ、妾(わたし)の仕事もおしまひになつちやつたア。……アンタに惚れたのが運の盡きだつたわよ」
といふうちに又もガリガリと梨を嚙り始めるのであつた。
僕は美味(うま)い葉卷の煙を天井に吹き上げてゐた。
氣のせいか又も二三發、停車場(ていしやじやう)の方向で銃聲を聞いたやうに思ひながら……。
病氣のせゐもあつたらう。すべてを諦め切つてゐた僕の神經は此時、水晶のやうに靜かに澄み切つてゐた。さうして此時ぐらゐ煙草が美味(うま)いと思つたことは無かつた。天井から吊るした十燭(しよく)の電燈が、ちよつと暗く……又明るくなつた。
[やぶちゃん注:●「十燭」現行の白熱電球の十ワット相当で非常に暗い。]
その時にニーナは又も、新しい小さい梨を一つポケツトから出して、今度は丁寧に皮を剝いた。さうして其の白い、マン丸い、水分の多い肌合ひを暫くの間ヂツと眺めまはして居たが、やがてガブリと嚙み付くと、スウスウと汁を畷り上げながら無造作に云つた。
「ねえアンタ」
「何だい」
「……妾(わたし)と一緒に死んでみない……」
僕はだまつてゐた。ちやうど考へてゐたことを云はれたので……
「ねえ。……ドウセ駄目なら銃殺されるよりいゝわ。ステキな死に方があるんだから……」
「フーン。どんな死に方だい」
と僕は出來るだけ平氣で云つた。少し許(ばか)り胸を躍らせながら……ところが、それから梨を嚙み嚙み説明するニーナの言葉を聞いてゐるうちに僕はスツカリ興奮してしまつた。表面は知らん顏をして葉卷の煙を吹き上げ吹き上げしてゐたが、恐らく此時ぐらゐ神經をドキドキさせられた事はなかつたであらう…。