歩く屍 村山槐多
歩く屍
瘦せた醜い屍體が歩いた
それが私だつた
蟲が湧きくさつて居つた
美しい日ぐれだつた
凄いなまめかしい月が顏をそむけた
紫の息吹の中になやんだ
その下を私が歩いた
ああ、ああ、それが私だつた
恐ろしい事實だつた。
×
神よ罪を犯したりわれは
今日の罪を今日許し給へ
明日の新らしき命の爲めに、
×
俺は夢を見よう、絶え間ない夢を見つづけやう
此世は霧の形で月光の色であらせやう
一生夢みやう、何かしらすさまじく貴とく興ある事どもを
餓死、貧困、屈辱、不運、醜惡もその夢の中の一つの黑い斑點だ、
戀、歡樂、美しい自然、名譽、それもまた夢の明るさだ、夢だ、夢だ、
夢の中に描き夢の中に働き夢の中にうたはう、
夢の中に紫の煙草をくゆらし公園にやすもう、
げんなりとし、にやにやと笑ひもしやう、
×
一切の過去には眼を瞑(つぶ)らう
新しい生が自分に現はれる、私はそれに心を打込まう、
一切の過去は思ふまい、空しき憂(うれ)ひだ、そんな物は。新らしい凉しい生活が俺を待つて居る、双手を高くさし上げて、
×
燃え狂ふ渦卷、
心のつむじ風、
顫(ふる)へたる身の舞踏
猛火しき思ひの走驅、
ああ、ああその上を照らす夏の光
眞紅に金に
ああああ苦しき時よ
身も心もちぎられるばかり
女よ、女よ、女よ
わが眼を避けよ、
われは電の如くとびつかん
女に、
×
愛する女よ
自分の心の中にそなたの食ひ入つて居る程がどんなにか大きい物かと思つて居るのか、恐らくそなたには冷笑一つにすら値しまい、
そなたには多くの男との接觸があり私には殆んどそなた一つしかない、
それでそなたが私に拂ふ注意も唯多くの男に分けて居るそれの一部に過ぎまい、
この口惜しささびしさにも係はらず自分は遂に
そなたを自分の心から追ふ事の出來ないのは如何なる譯(わけ)なのか、
自分は卑怯者なのか、ぐづなのか、
ぐづでもよし卑怯者でもよし
自分のそなたに對する愛は事實なのだから仕樣がない、取消す事の出來ない事實だ、
女よ、女よ
自分をいつまでこの無念さ、「思ひ通ぜず」の樣に放つて置くのか、
ただ一人神が知つて居る。
×
私が花の鉢を投げ落した、美しい、薄紫のシネラリアの一鉢を、二階の窓から下の空地(あきち)の上へ、
鉢はきやつと叫んで微塵に碎けてしまつた
「あらつ」とその時その空地に立つて居た娘がびつくりして聲を上げた、その聲の美しさ、その瞳の輝やかしさ、
×
私が立ちん坊にたばこの火を借りた
立ちん坊は大急ぎで懷中を探つてマッチを出して貸した、そしてその上紙袋をさし出して言つた、
「どうです、一つ甘いのを」と
それはお菓子の袋であつた、
×
火よりも暑い紫の空が大地にけむつてる
ふらふらと吹くそよ風はわたしと共に歩いてる
ああああ夏よ美しい焦熱地獄のこの季節
私の喉は金箔にかつと塗られてはく息も
肉の物とは思はれぬ金氣を交ぜた金色だ
あついあつい、あついあつい
北極から氷山が空をとんでこないかしらん
×
さんらんたる藝術の中に
われ坐す
ぜいたくに、
強烈に、
執拗に、
深刻に、
×
女よ女よ
自分の靈に食ひ入つた貪慾な獸の樣な
美しい女よ
自分には今はお前はただ獸としてのみ考へられる、自分の眼の上のこぶなる恐ろしい獸として
お前は恐ろしい獸だ、まつたく恐ろしい獸だ、
お前はまた自分達の近くに現はれたさうだ、
私は逃げなくてはならなくなつた、
お前の眼を避ける爲めに手段を講じなくてはならなくなつた
ああしかし心底では、私は、お前がもう恐ろしくはない、お前は自分の戀人ではない、
ただ獸だ、獸だ、
×
女、女
またお前はおれをひく
おれの心は噴水の樣にお前の方へと高まる
ひくのをよして呉れ
おれは度々しくじつたではないか
愚かにも引かれるままにひかれた爲に
助けてくれ
助けてくれ
×
安らかの思ひに時を保たせよ
大空の色の如く
吐く一抹の霞の色を保てよ
ああ燃えんとする血、心を押へて
靜かに靜かにおしつけよ
苦し、狂ほし
その故に安らかなる思ひを
いつまでも保たんとわれは思ふ
×
小杉夫人は鋭い一の聲音である
自分は感謝しなぐさめられる
自分を助け導びく小さな女王だ。
×
呑氣者と人が自分を言つた、
人の世はそれ程までに苦しい物か知らん。
自分は可成りに苦しみあくせくして居るではないか
×
電車の中の一箇のなまめかしき靜物――女
この靜物は林檎より描きにくい
□□□□□だけに
×
ものうい□の□が立ち上つて首を振つた
かくしたつてだめだ
お前の名は□□だろう
[やぶちゃん注:底本では「俺は夢を見よう、絶え間ない夢を見つづけやう」と次の「一切の過去には眼を瞑らう」、及び「愛する女よ」と次の「私が花の鉢を投げ落した、美しい、薄紫のシネラリアの一鉢を、二階の窓から下の空地の上へ、」で始まる四パートが、他の一行字数の比較的短い詩篇よりも有意に二字分上から組まれている。これは槐多自身の詩篇配置の可能性が高いようにも思われるが(但し、底本自体の編者が字数を稼ぐために行った仕儀の可能性も有意にはある)、初期公開のブログではブラウザ上、美しくなく且つ逆に読み難くなるので再現していない。なお、「全集」もまた、この違いを全く再現していない。
「全集」は最後に山本『編註』があり、終りから二つ目の連の三行目の五字伏字は『不詳』としつつ、最終連は以下の字で推定復元されている。当て嵌めた最終連をすべて示す。
*
ものうい俺の竿が立ち上つて首を振つた
かくしたつてだめだ
お前の名は魔羅だらう
*
「俺は夢を見よう、絶え間ない夢を見つづけやう」「つつけやう」、及び同連の続く「此世は霧の形で月光の色であらせやう」の「あらせやう」、「一生夢みやう」の「夢みやう」、「夢の中に紫の煙草をくゆらし公園にやすもう」の「やすもう」、「げんなりとし、にやにやと笑ひもしやう」の「しやう」、そしてずっと飛んで、最終行の「お前の名は□□だらう」の「だろう」もママである。
「シネラリア」キク亜綱キク目キク科キク亜科ペリカリス属シネラリア Pericallis × hybrida。北アフリカ・カナリヤ諸島原産。冬から早春にかけて開花、品種が多く、花の色も白・靑・ピンクなど多彩。別名フウキギク(富貴菊)・フキザクラ(富貴桜)。英名を“Florist's Cineraria”と言い、現在、園芸店などでサイネリアと表示されるのは英語の原音シネラリアが「死ね」に通じることから忌まれるためである。しかし乍ら、“Cineraria”という語は“cinerarium”、実に「納骨所」の複数形であるから、“Florist's Cineraria”とは「花屋の墓場」という「死の意味」なのである――余りに美しすぎて他の花が売れなくなるからか? グーグル画像検索「シネラリア」をリンクしておく。
「貪慾」は底本では「貧慾」で「全集」でもそうなっているが、これは意味上、どう考えても「貪」の誤字か誤植であると判断して例外的に訂した。大方の御批判を俟つ。
「自分には今はお前はただ獸としてのみ考へられる、自分の眼の上のこぶなる恐ろしい獸として」全集では間の読点が除去された上、
*
自分には今はお前はただ獸としてのみ考へられる
自分の眼の上のこぶなる恐ろしい獸として
*
と改行している。
「小杉夫人」東京に上京(大正三(一九一四)年六月二十五日)後、翌七月五日から寄寓し始めた田端の画家小杉未醒(放庵)妻。槐多は同年九月に日本美術院研究生となり、大正五(一九一六)年の春まで厄介になった。槐多の生活面を少しでも健全な方へ向かわせようとした『美しい小さい奥さん』(大正三年七月附山本二郎宛書簡)であったらしい。
「お前の眼を避ける爲めに手段を講じなくてはならなくなつた」「全集」はこの行の末尾に句点を打っているのであるが、これは今までの同全集の整序のセオリーから見ると、打った理由が分からない、おかしな追加である。]
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