『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 德泉寺の舊跡
●德泉寺の舊跡
德泉寺の舊跡は。山内管領屋敷(くわんれいやしき)の東市家の後(うしろ)なりといふ。上杉朝宗の建立にして。開山は東嶽和尚〔文昱〕なり。朝宗の法號を德泉寺道元稽禪助庵主と號す。應永二十一年八月廿五日卒せり。
[やぶちゃん注:臨済宗。山号は霊芝山。管領屋敷跡(或いは東管領屋敷)と呼称される一帯の西部分で、現在の亀ヶ谷切通の上部入口の道の西北向かいに当たる。
「上杉朝宗」(ともむね 建武元(一三三四)年?~応永二一(一四一四)年?)は犬懸上杉家始祖上杉憲藤(のりふじ)の子で朝房(ともふさ)の弟。氏憲(禅秀)の父。関東管領。足利尊氏に従った父が北畠顕家との戦闘で暦応元・延元三年(一三三八)年に摂津(「信濃」ではない)で亡くなった後は、兄とともに家臣石川覚道に養育された。天授三・永和三年(一三七七)年に関東管領であった兄朝房から家督を譲られ、犬懸上杉家第二代当主となる。応永二(一三九五)年(現在知られる就任は「應永五年」ではない)から応永十二年(一四〇五)年まで関東管領を務めた。応永十六(一四〇九)年に鎌倉公方足利満兼の逝去とともに剃髪、禅助と号して上総に隠退、家督も氏憲に譲っている。
「東嶽和尚〔文昱〕」「ぶんいく」と読む。円覚寺第六十一世東岳文昱(?~応永二十三(一四一六)年)。]
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