『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 上杉憲方墓
●上杉憲方墓
上杉憲方墓は。明月院方丈の西北岩窟内に在り。左石の窟壁に十六羅漢を彫附せり。憲方法號を明月院天樹道合といふ。應永元年十月廿四日卒。歳六十。
[やぶちゃん注:上杉憲方(のりまさ/のりかた 建武二(一三三五)年~応永元(一三九四)年)のこと。初代関東管領上杉憲顕(のりあき)の子。は道合は法号・戒名で正式には明月院天樹道合(どうごう)。以下、ウィキの「上杉憲方」によれば、天授二年/永和二(一三七六)年に病床にあった兄の能憲から山内上杉家の所帯等を譲られ、二年後の能憲の死の直前にはやはり兄であった憲春が務めていた上野守護職や憲春の所領も憲方が知行すべき分として譲られている。能憲の死後、関東管領には憲春が任じられたが、山内上杉家の家督は憲方に渡っている。約一年後の天授五年/康暦元(一三七九)年三月七日に康暦の政変に乗じて京に攻め上ろうとする鎌倉公方足利氏満を諌死すべく憲春が自害し、攻略は中止され、翌四月の十五日、憲方は関東管領に任ぜられ、五月には憲春が維持していた上野守護職も憲方に安堵されている。弘和二/永徳二(一三八二)年一月には管領職から退いたが、六月には再任されている。『武将としての器量に優れ、氏満を補佐しながら小山義政・若犬丸父子の反乱鎮圧に功を挙げた(小山氏の乱)。それらの功績により上野・武蔵・伊豆・安房・下野の守護職を与えられている』。墓所は明月院に現存するが、『極楽寺駅付近に、上杉憲方夫妻の墓と伝わる七層塔・五層塔があり、付近には逆修塔と伝わる宝篋印塔も存在する』羅漢像が風化してあたかも亡者の群れに囲まれているようなこれより、苔むした後者の層塔の方が個人的には遙かに好きである。]