『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 明王院
●明王院
飯盛山寛喜寺(いゝもりさんくわんきじ)五大堂と號す公方屋敷より東。海道よりは北河の向(むかう)にあり。里民或は大行寺ともいふ。眞言宗仁和寺の末寺(ばつじ)にて賴經將軍の祈願所なり。東鑑に寛喜三年十月十六日。將軍家御願として二階堂の内に五大尊堂を建立すへきの由。方角(ほうかく)日時を校量(かうりやう)せらる。同年十一月十八白。五大尊の像造始らる。嘉禎元年二月十日。堂建立將軍家渡御あり。同年三月五日。鐘樓を立らる。同年六月廿九日。鐘を懸らる。同日に五大明王の像を安置す。同く明王院五大尊堂供養の儀あり。願文は大藏卿菅爲長草す。内大臣實氏淸書す。安鎭は辯の僧正定豪將軍家出御とあり。今堂に不動一尊を安す。筑後の法橋作。寛永年中の回祿に。四尊は燒亡して不動一尊殘れりと云ふ。藥師大日の像もあり。東鑑を見れば、此五大堂。初は甘繩の地に可ㇾ建由なりしか。賴經の若宮大路の屋敷より鬼門に當るを以て此地に定むるとなり。
[やぶちゃん注:古義真言宗。寺名は建立発願時の年号をそのまま使ったもの。「五大堂」とは後に出る通り、「五大尊」、五大明王を祀った堂のこと。五大明王は不動明王〔中央〕・降三世(ごうざんぜ)明王〔東方〕・大威徳明王〔南方〕・軍荼利(ぐんだり)明王〔西方〕、そして真言宗では金剛夜叉明王を、天台宗では烏枢沙摩(うすさま)明王(後注参照)を北方に配するのが一般的な安置法である。特に密教で行われる修法の一つである「五壇の法」(「五壇の御修法(みずほう)」「五大尊の御修法」と称し、個別に五壇に勧請安置なし、それら総てに国家安泰・兵乱鎮定・現世利益などを祈願する修法。天皇や国家の危機に際して行われる非常に特別な秘法)を修する。この五大尊で修されるの特殊な呪法で、しかもここが現存する鎌倉将軍の発願による唯一の寺院となると、これ、発願者頼経が京都に送還された事件の背後で、幕府を呪詛したという流言飛語が流れた(執権時頼お得意の謀略と私は読んでいる)ことと、この明王院、どうも切り離しては私は考えられないのである。
「河」胡桃川(滑川)。
「里民或は大行寺ともいふ」「新編鎌倉志卷之二」「明王院」の引用。
「末寺(ばつじ)」「末」を「ばつ」とするのは末娘の意の「末女(ばつじょ)」などに例があるが、一般には「まつじ」と普通に読む。
「寛喜三年十月十六日」寛喜三年は西暦一二三一年。「吾妻鏡」の同条を引く。
*
十六日戊辰。霽。二階堂内可建立五大尊堂之地者。本堂地池上也。可糺彼方角之由。被仰下之間。周防前司親實。式部大夫入道光西〔御堂奉行〕。藤内左衞門尉定員等相伴陰陽師晴賢已下。攀上本堂後山。校量方角。從御所相當寅与申間。不可有憚之由。令一揆。然而明年者。可爲王相方。而故二位殿御時。所被用本所之僧坊一宇在之。可爲御本所。彼坊自可被立御堂之地。當乾方歟。猶以戌方分歟之由。晴賢申之。各令歸參。言上其趣。戌尅。於武州御第。爲尾藤右近入道奉行。有御堂造營日時之定。其後有献盃羞膳。親實。光西等候其座。
○やぶちゃんの書き下し文
十六日戊辰。霽。二階堂内に五大尊堂を建立すべきの地は、本堂の地の池の上なり。彼(か)の方角を糺すべきの由、仰せ下さるるの間、周防前司親實、式部大夫入道光西〔御堂の奉行〕、藤内左衞門尉定員等、陰陽師晴賢已下を相ひ伴ひ、本堂後山に攀ぢ上りて、方角を校量(けうりやう)す。御所より寅と申の間に相ひ當り、憚り有るべからざるの由、一揆(いつき)せしむ。然れども、明年は、王相方(わうさうかた)たるべし。而るに故二位殿の御時、本所に用ゐらるる所の僧坊一宇、之れ在り。御本所と爲すべし。彼(か)の坊、御堂を立たらるべきの地より、乾(いぬゐ)の方に當るか、猶ほ以つて戌の方の分か、の由、晴賢、之れを申す。各々歸參令せしめ、其の趣を言上す。戌の尅、武州の御第に於いて、尾藤右近入道を奉行として、御堂造營の日時の定め有り。其の後、献盃(けんぱい)・羞膳(しうぜん)有り。親實、光西等、其の座に候ず。
*
以上の内、「校量」は較量とも書き、ある物事を本(もと)に他の物事を推し量ることで本文のように「こうりょう」とも読む。「一揆」は狭義には中世鎌倉・室町期の特殊な用語として同族の武士などが共通の利害関係に基づいて政治的軍事的に団結して進退をともにすること及びそうした組織の呼称であるが、ここは一般名詞として心を同じにすること、一致団結ほどの意である。「王相方」とは陰陽道で時と方角が良からぬ状態を指すものと思われる(王相方で方違えを行うという古記事が散見される)。「故二位殿」は北条政子。「羞膳」の「羞」は「料理を勧める」意で、料理・ごちそうの意である。注意すべきは、この発願の初めは、建立地が永福寺内に内定した事実である。
「嘉禎元年」一二三五年。厳密には六月はまだ文暦(ぶんりゃく)二年(九月十九日に嘉禎に改元)。この六月の「吾妻鏡」は殆んどが明王院の記事で埋まっている。
「大藏卿」大蔵省の長官。
「菅爲長」九条家下家司で公卿の菅原為長(保元三(一一五八)年~寛元四(一二四六)年)。彼は長命であった上にブレーンとして属した九条家が親幕派であったこと、学者肌で生前の北条政子とも懇意であったことなどから、幕府受けが良かっただけでなく、正二位・参議・大蔵卿叙任という異例の昇進を遂げている(ウィキの「菅原為長」を参照されたい)。
「内大臣實氏」西園寺実氏(建久五(一一九四)年~文永六(一二六九)年)。承久の乱で父公経とともに幽閉された親幕派である。この嘉禎元年中に右大臣、寛元四(一二四六)年には太政大臣に昇っている。
「安鎭」仏堂新造の鎮魂の修法。
「定豪」鶴岡八幡宮別当。彼がこの明王院の初代別当となっている。
「筑後の法橋」仏師であるが不詳。「法橋」は「ほつきやう(ほっきょう)」で、法橋上人位という律師の僧綱(そうごう)に授けられる僧位の略称で法印・法眼の下位であるが、後に一般僧、更には仏師や絵師も叙任されるようになった。
「寛永年中」一六二四年~一六四五年。この火災焼亡記事は「新編相模国風土記稿」に拠るものであろう。
「初は甘繩の地に可ㇾ建由なり」「吾妻鏡」の前掲の記事のたった三日後の寛喜三(一二三一)年十月十九日の記事を引く。
*
十九日辛未。雨頻降。改二階堂御堂之地甘繩。城太郎南。千葉介之北。被點定西山之傍。兩國司亦巡檢給。今日。相當于橘寺供養之日。不吉也云々。仍陰陽道數輩被召決之。泰貞。晴茂。長重。文元一同申之。件寺供養者寛治五年也。而供養与作事各別事也。甚不可有憚云々。亦齋藤兵衞入道淨圓申云。辛未日。有不吉所見云々。云彼云此。無御承引兮。被用今日也。法橋圓全申云。粗考先規。辛未之例非一。所謂後一條院寛仁四年正月十九日辛未。興福寺阿彌陀堂御塔柱立。堀河院康和二年七月六日辛未。於春日社一切經供養。同日於日吉社大般若經供養。鳥羽院元永元年閏九月廿二日辛未。熊野山一切經供養〔有御幸〕。崇德院保延二年三月四日辛未。熊野山本宮五重御塔供養。後鳥羽院元曆元年閏十月十日辛未。法皇御願於蓮花王院萬部四卷御經供養等也云々。
○やぶちゃんの書き下し文
十九日辛未。雨、頻りに降る。二階堂御堂の地は甘繩(あまなは)に改め、城太郎が南、千葉介が北、西山の傍らを點定(てんぢやう)せらる。兩國司、亦、巡檢し給ふ。今日、橘寺供養の日に相ひ當り、不吉なりと云々。
仍つて陰陽道數輩に之れを召し決せらる。泰貞・晴茂・長重・文元、一同に之れを申すに、件(くだん)の寺供養は寛治五年なり。而うして供養と作事とは各々別事なり。甚だ憚り有るべからずと云々。
亦、
齋藤兵衞入道淨圓、申して云はく。
「辛未(かのとひつじ)の日、不吉の所見有り。」
と云々。
彼(かれ)と云ひ、此(これ)と云ひ、御承引無くして、今日を用ゐらるるなり。法橋圓全、申して云はく。
「粗(ほぼ)、先規を考ふるに、
辛未の例、一(いつ)に非ず。所謂、後一條院の寛仁四年正月十九日辛未、 興福寺阿彌陀堂御塔の柱立(はしらだて)、堀河院の康和二年七月六日辛未、 春日社に於いて一切經を供養す、同日、日吉社(ひえしや)に於いて大般若經を供養す、鳥羽院の元永元年閏九月廿二日辛未、熊野山の一切經供養〔御幸有り。〕、崇德院の保延二年三月四日辛未、熊野山本宮の五重御塔供養、後鳥羽院の元曆元年閏十月十日辛未、法皇御願、蓮花王院に於いて萬部四卷の御經供養等なり。」
と云々。
*
とある。当時の公権力者(この時でさえかの智将北条泰時である)が如何に吉凶に振り回されたかが、喜劇のように読める。かくして翌十月二十日は早速に甘繩にまたしても校量を行わせ、「是自御所坤方也。方角無其憚。作事不可有難由申之。」(是れ、御所より坤(ひつじさる)の方なり。方角に其の憚り無し。作事難有るべからざる由、之れを申す)と一度は落ち着くのだが……ところが……凡そ一年後(貞永元年には九月が閏月)の貞永元(一二三二)年十月二十二日の記事を見よう。
*
廿二日戊戌。天晴。爲將軍家御願。明年可被立五大尊堂事。未被議定其地。仰人々被求勝地。毛利藏人大夫入道西阿領大倉奥地可然之由。有其沙汰。今日。依仰相州。武州相具親職。晴賢。文元。珍譽。金藏等監臨給。毛利入道。接津守。駿河前司。隱岐入道。後藤大夫判官。伊賀式部入道等同參進。地形勝絶越日來巡檢方々之由。各定申。仍可爲此地之由。被思食云々。
○やぶちゃんの書き下し文
廿二日戊戌。天、晴る。將軍家御願の爲、明年、五大尊堂を立てらるべき事、未だ其の地を議定せられず。人々に仰せて勝地を求めらる。毛利藏人大夫入道西阿領の大倉奥地、然るべしの由、其の沙汰有り。今日、仰せに依つて相州・武州・親職・晴賢・文元・珍譽・金藏等を相ひ具し、監臨し給ふ。毛利入道・接津守・駿河前司・隱岐入道・後藤大夫判官・伊賀式部入道等、同じく參進す。地形の勝絶、日來(ひごろ)巡檢の方々(はうばう)に越ゆるの由、各々定め申す。仍つて此の地たるべきの由、思しめさるると云々。
*
なんじゃあ?! すこぶる景勝地だあ?! 今までの議論は、何だったんじゃい! と言いたくなる合議なわけで、さても本文に出るご大層な「賴經の若宮大路の屋敷より鬼門に當るを以て此地に定むるとなり」なんてえのは後付で、やっと三年後の文暦二(一二三五)年一月二十一日の起工当日の「吾妻鏡」に突如、出現するのである。何だか、私は呆れてしまうのである。……
*
廿一日乙卯。御願五大堂建立の事、相州・武州、度々巡撿。被撰鎌倉中之勝地。去年雖被定城太郎甘繩地。猶不相叶。頗思食煩之處。相當于幕府鬼門方。有此地。毛利藏人大夫入道西阿領也。依爲御祈禱相應之所。被點之。即被引地訖。仍今日先摠門計被建之。相州。武州。大膳權大夫以下數輩被相向伊賀式部入道光西爲奉行。
○やぶちゃんの書き下し文
廿一日乙卯。御願の五大堂建立の事、相州・武州度々(たびたび)巡撿(じゆんけん)し、鎌倉中の勝地を撰(えら)ばる。去年(こぞ)、城(じやうの)太郎が甘繩の地を定めらると雖も、猶ほ相ひ叶はず、頗る思し食し煩ふの處、幕府の鬼門方に相ひ當たりて、此の地、有り。毛利藏人大夫(くらうどのたいふ)入道西阿(せいあ)は領なり。御祈禱相應の所たるに依つて、之れを點ぜらる。即ち、地を引かれ訖(をは)んぬ。仍つて今日、先づ摠門(そうもん)計(ばか)り、之れを建てらる。相州・武州・大膳權大夫以下數輩、相ひ向かはる。伊賀式部入道光西・清判官(しんのはんがん)季氏等、奉行たり。
「毛利藏人大夫入道西阿」宝治合戦で自刃した毛利季光(建仁二(一二〇二)年~宝治(一二四七)年:彼は実は北条方に就こうとしたが三浦義村の娘であった妻の批難により三浦方に組した。)のこと。彼は大江広元の四男であった。「公方屋鋪蹟」で述べた通り、ここら辺りは、もともと大江広元邸の敷地内であったことがよく分かる(因みに、彼の官位にある「藏人大夫」であるが、この「大夫」というのは五位の別称であるから「蔵人の五位」と同義である。但し、「蔵人の五位」というのは「五位の蔵人」とは意味が違って――元蔵人であったが今は職には就いていない五位の人――即ち――六位の蔵人を勤めていて五位に上がったものの、五位の蔵人に空席がなかったため、蔵人の職を辞めることになった人――を指す特殊な謂い方であるので注意されたい)。]